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“キスしていいかい、コネコちゃん”
 今までに比べたらひどく穏やかな笑顔。そこからさらっと出た彼の言葉を理解するのに千尋は少しの間を要した。そして把握した途端、やけに照れてしまった。
 冗談みたいな軽い口調、けれどもその瞳はひどく真面目な様子で。
「……そんなこと、まさか、わざわざ聞かれるなんて」
 思いもしなかった、だから千尋は驚いていた。最初はあんなにがっついておいて、今更何をと。
 そんな千尋の気持ちが態度から伝わったようで、彼は楽しそうに笑った。
「クッ…! もう怒らねえのか?」
「あ……」
 そういえば、止めたのは自分だったと千尋は思い出す。
「忘れてるくらいなら、もうかまわねえか」
 目を細めてそう言う彼に、千尋は自分の体温が上がるのを感じる。
「……好きにしたらいいんじゃないですか?」
 悔しさに口を尖らせ千尋はそう返した。
 もう夢は終わる。そう確信できてしまったからこそ、かまわないと思った。それに今なら、今の彼ならかまわない気がした。さっきまでとは違う。ひどく穏やかで、どこか覚悟を決めたような。
 そう思った瞬間。

“あなたとの別れを覚悟した人が…”

 ふと思い出された母の言葉が頭をよぎる。

(そうだった。つまりは。……彼も母のように、私と会えなくなる覚悟を?)

 思いを巡らす千尋の方へ彼は身を乗り出す。手前に置かれた左手へ体重を預けながらゆっくりと、別れを惜しむように。そうしてお互いの顔が近づいていく。鼓動が早まる。胸が締め付けられる。
(ああ、そうだわ)
千尋は気付く。
(これは私達二人の、いつもの別れの挨拶と同じ)
 目の前にいる彼は、やっぱり神乃木なのだと千尋は思った。これから何年後の姿か見当もつかないけれど、たしかに。
(いつもと同じなら、……また会える?)
 だけどその彼が思い起こすのは、《今》の自分なのだということも千尋はわかっていた。それが意味するものはどういうことか。
 千尋の脳裏に夢で出会った両親の姿が浮かぶ。まだ病に倒れる前の、一番一緒にいた頃の千尋を呼んだ病床の父。失踪する直前の母とその頃より老いた母の姿。
 そこから考えれば、この夢での彼のそばに千尋は、少なくとも今ほど一緒にいられることはないのだろう。だからこそ千尋は、今目の前の姿をいつまでも見ていたい気持ちになっていた。
 だけども世界はどんどん光に包まれ、二人の距離は近づいていく。間近になった顔と顔。鼻先にコーヒーの香りが届いた気がしたとき、彼の目が伏せられ、彼女もそれに合わせて目を閉じて。
 そしてようやく、唇が、触れた。

 ――気がした。けれど、もうわからなかった。



 目を開けると薄暗い世界が広がっていた。ぼんやりとした意識のまま、机に前のめりになっていた体をゆっくり起こす。急に冷えたような違和感を感じると同時に、机に向かった状態で寝てしまっていた自分をだんだんと千尋は認識していった。
(そういえば…一休みしてたんだったわ)
 ゆっくりと意識が現実に戻っていく。
(必要な仕事を済ませた後、定時が過ぎてからも調べものを続けていて、それで…)
 事件の調査にも自分の気持ちにもあまり進展のないまま、神乃木が戻るまでと待っていた。彼に頼まれた書類を確認してもらうために。ついでに美柳ちなみの事件に関する追加調査の状況も報告が必要だ。
 それとは別の、今日一番の問題をあえて先送りにしたままで。
 堂々巡りの思考の中、いつの間にか眠ってしまったようだ。そんな自分にあきれながら、先ほどから気になっていた、背中から背もたれへずり落ちた布を手前に持ってくる。起き上がった瞬間にずれて冷えた気がした違和感の正体は黒いスーツの上着だった。襟元の弁護士バッジ。微かに残る覚えのある香り。
 その上着の持ち主が誰か、千尋にはすぐわかった。慌てて辺りを見回しても誰もいない。彼が席にいないことを確認した千尋は事務所の応接室に向かった。


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