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 はっきりいって、胸糞悪い夢だった。
 夢だってのに何も見えない。そもそも真っ暗な空間のようだが、手に顔をやると仮面がなかった。納得すると同時に無駄なリアリティにため息をつく。何もできず寝転がると、その地面はやけにひんやりとしていた。
 しだいにやってきた睡魔に心も冷える。5年の眠りに目覚めてからの夢見はそれほどいいものではない。二度と目覚められない気がしてしまう恐怖。それだけでなく。
 はっきりと千尋が現れるなんて都合のいい夢は、一度も見なかった。それなのに、事件の夢は何度か見ている。自分の毒殺のときだけではない。何故かあのシマシマの、コーヒーのお礼を言って死んだあの男の最期の。

“5年間、毎日夢を見る… あの日の夢…”

 真実を認められず、殺していないはずの天使を、しまいには殺したと言い出した。本当に殺してしまうかもしれないと毒を飲んだアイツ。
 自分とは似ても似つかないはずのあの男と、今の自分が重なって見えるその夢が、恐ろしい。
 ……同時に、そう思う自分自身も馬鹿馬鹿しく思っていた。

 しばらく離れていた意識が、人の気配を感じて元に戻る。本当に寝ちまうとは呑気なもんだと思いながら、誰かいるのかと問い掛ける。手探りで掴んだ身体から発せられた声に、ひどくうろたえた。
 まともじゃいられなかった。
 そこからは、この見えない世界の夢が、まさに夢の中だと思い知る。
 何も見えなくなってしまった自分の前に千尋がいる。こうして、千尋と会えてしまうだなんて。

 千尋の声と感触、やたら生々しいそれに頭が真っ白になり、何も考えたくなかった。
 同時に、ひどくいらついた。
 まるで変わってしまった今の自分を、止めに現れたようにしか思えずに。
 恐ろしかった。見られたくなかった。知られたくなかった。
 そんな風に感じる自分の深層心理が見せてる夢かと思うと尚更、自虐にも程があると呆れてくる。
 ただの夢のはずなのに、見ることすらかなわない彼女の反応にいちいちいらつく。愛しかったはずの彼女が知る俺は、今の俺じゃないことが、その隔たりへの不快感は憎しみへと変わっていく。それは話せば話すほど鮮明になり、もういない神乃木荘龍への嫌悪は増し、今の自分も崩れ落ちていく気がしていく。
 それなのに、彼女への想いも同時に溢れて止まらない。

 たかが夢のはずなのに。そう思っているにも関わらず、やけに本物みたいに生々しかった。
 目の前の彼女にとっての未来を語れば夢が終わる、そう言われ、そんなことを素直に信じてしまう。それなら言いたくないと心底思ってしまう。彼女へのいらつきを隠せないのに、それでも。まだ一緒に、少しでも長く一緒にいたいと思ってしまう。
 だがしだいに、抑えきれない気持ちがこみ上げていく。

「いいかチヒロ」
 この離れがたい夢が終わるといわれても、言わずにはいられなかった。
「アンタはもっと誰かに。一人で抱え込まず、頼ればいいんだ」
 だけど、はっきりいうこともできなかった。
「自分のことをもっと、安全な場所に置いて。あんな野郎でも、巻き込んでやれば…」
「そんなの」
 ぼかした話に口を挟まれたことで、自分の半端さが見透かされたようで怯んでしまう。更に続いた千尋の言葉に、頭を殴られた気すらした。
「自分のために、進んで誰かを巻き込みたいわけ、ないじゃないですか!」

 ああ、そうだ。千尋はそういう女だ。わかっていた。
 そして同時に、今になってようやく、こんな状況になってようやく。

 俺が倒れた後の千尋は、どう過ごしてきたのだろうと思う。
 目覚める兆しがない俺は死んだも同然だったろう。今の俺と同じように、苦しんだのではないか。

“私の担当の事件なのに。神乃木さんまで巻き込んでしまって…”
 ちなみの事件を、二人で捜査を続けていたときに何度か千尋はそう言った。そのたびに、俺の事件でもある、と答えていた。それでもおそらく。
 自分の受け持った依頼に俺まで巻き込んでしまったという気持ちを、彼女はなかなか拭えなかったのではないか。そんな状態で起こった俺への毒殺事件は、彼女をどれだけ。傷つけたのだろうか。
 自分のせいで俺の人生を奪ったと、思ったのではないか。思わせてしまったのではないか。
 俺の、あの日の、あの油断のせいで。

 巻き込みたいたくないと言った千尋の言葉はまだ続いていた。追い討ちとなって頭に響く。
「それに… …神乃木さんには、だいぶ頼っちゃっているつもりでいるんですけど」
 それは十分に感じていた。わかっていたはずだった。
 それだけ…これだけ俺を信頼してくれいていた千尋のことを、俺は今まで。考えもしてなかったんじゃねえか。
 アンタの死への、自分の一方的な悲しみばかりで、自分の絶望ばかりで。
 俺の死がアンタに与えただろう苦しみを、考えもせず。考えもしなかった。そんな。
 そんな価値のない男だったのか。俺は、今の俺は。
 いや。アンタを守れもせず眠ってしまった俺は、あの頃から。

「……オレじゃあ、ねえ…」

 千尋に頼られる価値もない男だった。
 神乃木荘龍なんて男は、その程度の。
 死んで当然の馬鹿野郎だ。

 一際大きくため息をつく。自分がどうしようもなく情けなくて、まともに何も考えられなかった。
 だが一つ心から思った。今一番に、どうしても伝えたい。夢が終わろうと、どうだっていい。
 手探りでつかんだ千尋の手をぎゅっと握り締める。
「チヒロ……」
 ひたすらに切望するのは、彼女に懇願したいのは。
 何よりも、ただ一つ。

「死ぬんじゃねえよ…」

 それだけだった。


 その言葉を口にした瞬間。強い光が、見えないはずの俺の目にも飛び込んできた。
 何もかもを忘れそうになるほどの強い光。いや実際、俺は忘れた。だからこそすぐに気づかずにいた。光に呑み込まれた瞬間から、自分の視界が変わったことに。
 はじめの一番強い光はいつの間にか収まり、かわりに遠く地平線から別の光が徐々に迫ってくる。暗い影でできたこの世界がひびわれ飲み込まれていく。 まるで現実味のない、美しさすら感じられる光景に夢の終わりを予感する。終わるのだ。

「夢、もうすぐ終りですかね」
「……みてえだな」
 嘘みてえな景色に頭が冷えてく。俺は一体、何を。これまでしてきたのか。これから、どうしようというのか。
「赤くて…綺麗ですね」
「…ああ…」
 その彼女の言葉に、一瞬違和感を覚えた。だがすぐに、自分の目からその色が失われていたことを思い出す。ごまかすようにただ相槌を打って。
 その直後、とんでもない事実に気付く。いや、思い出す。
 これは夢だ。そう夢だ。
 だというのに何も見えなかった夢。
 見えないのに千尋がいる夢。彼女の声が聞こえる夢。彼女に触れられる夢。
 今この手の温もり、その先に彼女がいるはずの、見えてなかった夢。

(――そこに景色が見える?)
(視力が戻った? あの仮面でのものに? あるいはかつての?)
 考えながらも、そんな小さな違いはどうでもよかった。
 息が詰まり大きくなる呼吸。気付かれないよう静かに唾を飲み込む。ゆっくりと彼女の方へ、視線を向けていく。
 かつての彼女の姿。
 資料で見た事務所所長紹介の写真でも、事件の現場写真でもない。俺が一番よく知る彼女が、そこにいた。
 まぶしすぎて息が止まった。唇が、震える。ゆっくりと意識して呼吸を整えようとしても、なかなかうまくいきやしねえ。
 もう一度会いたかった彼女がすぐそばにいる。それなのにひどく遠く見えた。
 今の俺は、触れることすら許されない気がするほど。綺麗で、…何故か恐ろしかった。
 耐え切れず、触れていた手を離す。そのまま顔に手をあてうなだれる。
 直視し続けられなかった。彼女の姿を目にした途端、さっきまでのこの夢のやりとりが、最初から見えていたかのように反芻され目が眩む。今の俺に対する彼女の怒りも悲しみも、余計に伝わって。
 そうして。
 どうしようもなく離れてしまったことを痛感した。

"明日、検事として法廷に立つ。弁護士には本当にさよならだ。”
"アンタの思いを捨てることになろうと、戻る気はない。”
 今日眠りにつく前の俺は、たしかにそう思っていた。それをためらう気持ちが一瞬芽生え、すぐに消えた。

 ……引き返せやしない。
 俺はまだ許せない。まだ終わらせられねえんだ。
 そうとしか思えない自分は、救いようのない馬鹿だ。わかっているのに、わかっていても尚。

「神乃木さん…?」
 アンタを守れもしなかった馬鹿の名前。もう忌々しいほどの名前。だが、その響きを聞いても、もうそれ程いらつきはしなかった。ゆっくりと目をあけ、彼女をまっすぐに見つめる。
 俺が思っていた以上に、彼女はソイツを愛してくれていた。弁護士としても、恋人としてもきっとそうだったろう。
 その存在を消すことは、神乃木荘龍を殺すことは。
 俺の中の千尋も、消してしまうことになるのだと。
 それにようやく気づいて、頭がやけに冷えていく。まぶたが重い。涙があふれるよりも前に力をこめる。
「…見えてますか、ひょっとして」
 千尋の問い掛けに、静かに微笑む。妙に戸惑う彼女の顔が愛おしかった。苦しかった。それがあまりに遠くて。もう戻れないことに。
 ふと、自然と口をついた言葉。言い終わってから、何よりふさわしいと思った。
 二人が付き合いはじめてからの、いつもの別れの挨拶。

「キスしていいかい、コネコちゃん」

 まだ何も知らないアンタと。
 これが、最後のお別れだ。



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