“今はアイツが、うちのナンバーワンだぜ”
そんなふざけた情報をくれた本人が、ナンバーワンの大きなソファに大きな身体を横たえていた。姿を見つけた安堵と同時に少し不安になる。
(息、してるのかしら)
何故かそんな心配が頭に浮かんでしまった。理由は千尋にもわからなかった。恐る恐る近づいていくと微かに寝息が聞こえてくる。それだけで、千尋はひどく安心した。
生きてる、いつもどおりの寝顔に、腹立たしくなってしまうほど心やすらいでしまう。それに、やけに懐かしい気もした。
(なんでかしら)
その原因が何か、千尋は思いを巡らしてみる。
(……そういえば、怖い夢を)
見ていたのだと、千尋は夢の内容を思い返そうとする。
たしか、なんだか怖くて悲しくて…でも大切な、そんな夢。
胸がしめつけられるような感情までしか思い出せないまま、千尋はソファーのそばの床に座りこんだ。横たわる神乃木の顔がすぐそばに見える。そこに顔を近づけ、小さい子どもが甘えるように額をよせた。眠る神乃木の体温は、とても心地よかった。
「ん……」
低い声とともに、千尋の目の前にある彼の瞼が重そうに動く。半分ほど開いた目で彼女の姿を見つけると、神乃木はやわらかく微笑み、ごく自然に顔を寄せてきた。唇が触れるよりも先に、千尋はうつむきそれを避けてしまう。
なんでか、千尋は自分でもわからなかった。触れたくて、甘えたくて寄り添うようにしゃがみこんでいたはずなのに。何故かひどく気まずかった。彼にたいして後ろめたいことでもしていたかのような。
自分の咄嗟の行動に千尋自身が疑問符を浮かべる中、先に何かを納得した神乃木は自嘲の笑みを浮かべた。
「クッ…!」
ゆっくりと起き上がった神乃木はソファーから足をおろし、床に座る千尋の方へ向き直る。
「……悪かった」
「え」
勢いよく頭を下げられ、何事が起きたのかと千尋は一瞬戸惑う。
「朝っぱらから、みっともねえこと言っちまった。…自分でも、驚きってやつだったぜ」
そういって神乃木は落とした頭をゆっくり上げ、深いため息をつき言葉を続ける。
「おかげで今日一日、どんなコーヒーもまずくてな……ろくに何杯も飲めやしねえ」
「つまり、飲んでるんですね」
千尋はつい、もはや合いの手とも言えるレベルで突っ込みを入れてしまう。その頃には千尋も、突然の神乃木の謝罪が何に対してのものだったのかを理解していた。
“アンタは、オレがアンタを想うほどは、オレのことを好きじゃないんだろうぜ”
千尋がひどく傷ついた、あの言葉だ。
普段どおりの千尋の返しに彼は楽しそうにクッと笑った後、真面目な顔で続けた。
「…俺が、ちょっぴり欲張りだっただけだぜ。けして、アンタの気持ちを疑ったわけじゃねえ」
素直な言葉に、千尋の心のわだかまりもほどけていく。
「先に言うなんて、ずるいです」
口を尖らせてそう言う千尋に神乃木は苦笑する。
「私だってびっくりしました。まさか神乃木さんの口から、まさかあんな女々しい言葉が出るなんて」
「クッ…あまりいじめないでくれよコネコちゃん」
更に苦々しい顔になって頬杖をつく神乃木がなんだか可愛く思えてしまう。
今朝のあの言葉だけじゃない、そんな顔だって昔は知らずにいたのだ。感慨深くそう思いながら千尋は立ち上がり、今度は神乃木の隣に腰かけた。
「だけど私も、それで気づきました。自分で思うよりも、自分の気持ちを伝えられてなかったんだって」
膝の近くで揃えた自分の両手を見つめながら千尋は続ける。
「……だからちゃんと、わかってもらえるよう、私も言います」
両手をぎゅっと握り締め、千尋は隣に座る神乃木の方へと顔を向けた。早まる脈を落ち着かせるように、深呼吸をしてから口を開く。
「好きです」
まっすぐ見つめてくる神乃木の瞳を見て尚更、そう思った。
「一緒に過ごす時間が減ること、寂しくない訳じゃないんですよ。私、神乃木さんのこと、ちゃんと好きですから」
言い終えて尚、じっと見つめてくる千尋から先に視線をそらしたのは神乃木だった。
「……言わせてるみてえだ」
困ったような笑顔で頭を抑える神乃木に千尋は更に詰め寄る。
「言わせて下さい」
「クッ…!」
観念した神乃木は再び千尋の方へ顔を向け、不適に笑う。
「いいぜ。いくらでも……聞いてやるぜ」
普段より柔らかな笑顔に、そういえばこんな顔も最初は知らなかったのだと千尋は思う。
彼があんな風なことを思う人だとも、彼だって弱気になるときがあることも。
(私が知っている彼は、私がそばにいるときの彼がほとんどだから)
彼が見せようとしなければそうそう見られるものではない。だから知らなかった、気づかなかった、それだけだったのだ。
そう考えた途端、突然だった。
千尋の脳裏に、夢の中で見た彼が浮かぶ。
千尋が知らない彼。
(そうだ、たしかあれは神乃木さん……だった?)
はっきり思い出せなかった。
(彼は…誰?)
思い出そうとするほど余計にぼやけていく記憶の輪郭を必死でなぞる。だけど追いつかない。口元に手をあて考え込んでしまった千尋に神乃木は声をかける。
「どうした、チヒロ」
その声に、ひどくぼやけたままの記憶が浮かび上がる。あの夢でもたしか、私の名前を呼んで。
“いいかチヒロ”
そう思った途端、ところどころ思い出せた言葉、あの夢でのやりとり。
“結局のところ…なにしても無駄だろうぜ”
“どうしちゃったんですか”
“もっと強気に、前へ進めと言ってくれるのが、センパイじゃないですか”
“どうしたって叶わないことがあるんだ”
あのとき感じた問いかけが、千尋の口をついた。
「神乃木さんは…」
うつむいたまま、千尋は言葉を続ける。
「どうしたって叶いそうもないことがあって、どうしても進めなくなってしまったとき、どうやって……あきらめますか?」
聞きたいことは、うまく言葉にならなかった。だけどそれは、あのとき知りたくなったことに近いとも千尋は思った。夢の中の彼が言うとおり、私の知る《センパイ》がただの偶像であるならば。本当の彼は、どう答えるというのか。
「クッ…!」
そう低く笑った神乃木は、横に座った千尋の肩を引き寄せる。そのまま千尋の頭に大きな手のひらを乗せた。
「今からそんなことを考えているようじゃ、そりゃあ届かねえだろうぜ」
聞こえてきたのは、力強い、だけど優しい声。
「ちょっぴりくらい、立ち止まるときがあったってかまわねえさ」
千尋の頭を優しく叩く、その手のひらの暖かさが伝わる。
「だが、チャンスは見逃すな。必ず……いつか、前へ進め」
それは千尋が思い描いていた通りの、力強い言葉。
はっきりと千尋にはわかった。やっぱり、間違っていなかった。自分が知る彼は、尊敬して憧れた、先輩弁護士の彼はたしかに。千尋の思い描いていた通りの。
同時に、もう一つわかったことがあった。夢の中での彼との違いが。何故だったのか。
“どうしたって叶わないことがあるんだ”
ぼんやりとした彼の姿が、言葉が浮かぶ。
“何べんでもいってやるさ、アンタのセンパイはもういない”
(ああ、そうか)
千尋は気づいてしまった。
(いないのは、私)
自然と涙がこみあげてくる。
(あの彼のそばに、もう私はいないんだ――)
自分の知る神乃木は、自分がそばにいる彼だけだ。
彼女のために、彼女の前だからこそ、今千尋の目の前にいる彼は、力強い言葉をくれる。
夢の中の彼が別人のようだったのは、その違いだったのではないか。つまりはきっと。
(私は彼を置いていく。…父や母が、私を置いていったように)
気づいた事実に、悲しみだけでなく自分が彼に置いていかれずにすむだろう安堵も湧き上がったことに罪悪感を覚えながら、うつむき首を振る。
(だけど、あきらめたくない。)
あきらめたことなんてないと、そう思っていたい。
「好きです」
千尋はもう一度その言葉を繰り返した。
もしかしたら何の意味もないかもしれない、間に合わないのかもしれない。
そう千尋はわかっていても、願いたかった。
「私、本当に、あなたを…」
彼の心に残るように。少しでも多く、この気持ちが。
そして少しでも、かけらでもいいから。どうか、あの日の彼まで。
泣きじゃくるように呟く千尋に神乃木は寄り添い、睫毛に軽く口付ける。抱えられた体温に千尋はひどく安心した。
「俺もだ。……愛してるぜ、チヒロ」
その彼の言葉に、抑えきれない感情がわきあがる。涙が止まらない。まだ終わりなんかじゃないのに。
夢の記憶はもうおぼろげで。だけどこの気持ちは忘れない。私は急がなくては。何でかはもうわからなくなってきたけど。
「大好きです、神乃木さん、私は、あなたが…」
繰り返す言葉は優しい口付けで遮られた。軽く触れるだけの。それがまだ別れの挨拶なんかじゃないって知ってる。寄せられた頬に、強く握られた手のぬくもりに。千尋はひたすら願う。
どうか忘れないで。私がいなくなったとしても。
あなたが思う以上に、私はあなたを好きだったこと。
「愛してる…」
どれだけ伝えても言い足りないこの言葉が、この想いが。
今目の前の彼の心に、そしていつかのあの日の彼まで。どうか残りますように。
<end>
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