帰り際、触れるだけの軽いキス。
それは二人が付き合いはじめてからの、いつもの別れの挨拶だった。
彼女の家の玄関先、帰り際の言葉を交わして初めてそうしたときの千尋の顔はなかなか忘れられない。
“…ホントにこんなこと、するもんなんですね”
驚いて数秒丸めた目を細くしてから、あきれた口調で言う。だけどその頬は朱に染まっていて。それがあまりに可愛くて可笑しくて噴き出してしまう。危うく帰りそびれちまうところだった。
笑われて拗ねたコネコが口を尖らせる。人目があるときはやめてくださいよ、そう釘を刺されまた笑った。
そんな風に、はじめのうちは渋々に見えた千尋が、少しずつ変わっていく。
例えばお互いの家で、マンションの前で、事務所の入り口で、少し辺りを見回した後に口付けることが、だんだん自然になっていって。
ある夜、いつもの夜なら人通りの少ないマンションの前で、なにもせずに帰ろうとした。すると千尋は意外そうな顔で眉を寄せる。その寂しげな顔に目配せしてみせた後、軽く顎を上げて千尋の後方を示す。それでようやく通りすがる人影に千尋も気づき、気恥ずかしそうに笑う。そのあまりの可愛さに顔がほころぶ。
“ずいぶん寂しげな顔だったぜ、コネコちゃん”
近くに人がいなくなったのを見計らってそうからかうと、不本意なのを隠さず千尋は悔しがる。その膨れた頬に手を伸ばし、そっと口付けた。
どんなやりとりも、なにもかも、バカみてえに嬉しかった。
付き合うこと自体にとまどっていたような千尋が、俺と一緒に過ごすことをだんだんと自然に感じてくれている。今までどおりの仕事のやりとりも。たわいないケンカも。甘くて熱い夜も。いってらっしゃいと別れる朝も。彼女とのすべてが、ずっと続くと思っていた。そんな未来しか待っていないとすら、思っていたのだ。
なんせ事務所ナンバーワンと言われるまでの俺だ。それだから尚更。彼女のためなら、どこまでも強くなれると。
あの頃の俺は、無敵のヒーローにだってなれるはずだった。
その驕りが、油断が。すべて間違っていたのかもしれない。
後になれば思う。何故俺は。
油断したつもりはなかった。だがそれならば何故。
あの女の前で、席を離れてしまったのか。
“まあ…こちらのお店、おテーブルに紙ナプキンすらないんですのね。
…カフェテリアとは名ばかり…食堂みたいなセルフサービスでしたなんて”
“ねえ、おじさま。ちなみのために、とってきてもらえませんの?”
あいつが女狐なことはわかっていた。だが、仮にも女相手にその要望を断るのも男じゃねえとただそう思った。そこまではまだいい。だが何故、だからといって、自分のカップに目を離してしまったのか。
みすみすあの女にそんなチャンスを与えしまったのか。
いや、理由はわかっている。簡単なことだ。
あり得ないと思っていた。
まさかこんな状況で。人がいない訳ではないカフェテリアで。目立たない席を選んだとはいえ、まさか。
そこでの話は確信へと近づいていた。あの女がトイレに向かい、一人になったテーブルで一息つく。おそらくあいつはこのままでは終わらない。ここから本番だろうと思い、景気づけにコーヒーをあおる。
数秒、経っただろうか、しだいに感じた違和感。
吐き出そうとしても遅かった。急激なめまいと頭痛。喉が焼け付くように苦しくなり呼吸がうまくいかない。
“毒、か!?”
まさかこんな… こんなすぐばれる状況で…? 捕まらないわけがないだろう。
バカな女狐だ。まさかこんなあからさまな尻尾を出してくるとは。
例え俺がしばらく動けなくなっても、こんな状況では逃げ切れまい。
きっと千尋が片をつけてくれるだろう。
証拠になるだろうカップを倒さないように置き、喉を胸を抑え体をまるめる。
だが、冷静でいられたのはそこまでだ。おそらくほんの数秒だったろう。
ぶれていく視界。うめき声しか出せない喉。こみ上げてくる嘔吐感。
熱いのか痛いのかわからない痺れがしだいに広がり、痛みが強まる速度は徐々に勢いを増す。痛みを感じる場所を抑えようとする本能で、しびれてうまく動かせない手を、無理やりに胸元や喉まで持っていく。だけども抑えきれない痛みに椅子から転げ落ちるように倒れ込む。しばらく前に持ってきた紙ナプキンが散らばる。倒れた衝撃による痛みなど気にならないほど、痙攣し動かせなくなった体。自分の意思と関係なくこみあげてくる血がごぼごぼと口から溢れ出す。
血が視界を赤くそめていく。喉を抑えていたはずの自分の手も、真っ白い紙ナプキンも。白い床も。赤く。何重にもぶれていく。今まで想像することのなかった猛烈な痛みは、それが痛みかすらわからなくなった。
まともに何も考えられないほどの苦痛の中、頭によぎっていく言葉。
“…死ぬ? ……死ぬ!? 俺が?”
死を意識してから頭に溢れたのは。
“はっ…死ぬわけねえ”
“嘘だこんなのは”
“あり得ねえ”
“嘘だ、嘘だ! 嘘だ!!”
痛み以外でかろうじて浮かぶ言葉は、そんな否定と憎しみだけ。
“許せねえ”
“よくも、よくもこんな”
ヒーローなんてのとは程遠い。
“美柳ちなみ…美柳ちなみ…!”
“必ずこの借りは…!”
みっともねえ恨み言ばかりだった。
死を認められずとも、どこか覚悟してしまった、あのとき。
残される千尋のことを想えていれば。せめて少しだけでも、想えていられれば。
何かは違っただろうか。
……少なくとも、あの日の自分を、ここまで嫌悪することはなかったかもしれない。
完全に意識が飛んだのはいつだったのか、わからねえ。
その次に意識が戻ったとき、それがいつだったのかもわかりはしなかった。
はじめのうちは全身がただの塊になったようにうまく動かせず、まぶたを上げることも声をあげることもできなかった。 そんな状況では、どこまでが悪夢だったのか、どこまでが、どこからが、現実だったのか。まったく検討がつかなかった。
…それは今ですら、わからねえ気がしちまうが。
しだいになんとか目をこじ開けられるようになっても、世界は変わらなかった。うめき声にしか聞こえない声。固まった身体をやっとのことで動かし、首を少し傾ける。
俺自身は、まだ目が覚めた気はしていなかった。だけどそのときから、奇跡的に目を覚ました患者として扱われるようになった。
奇跡的。たしかにそうなのだろう。
毒を飲み生死の境をさまよい何年も眠りについた男が目を覚ましたのだ。そりゃあ確かに奇跡だ。それがどれだけあり得ない程の幸運かがわかっちゃいても、俺にとって。
視力と5年の歳月の喪失は重かった。
その上で聞かされた千尋の死。
到底信じられる話ではなかった。事実だとは思えない。だが、じいさんの冗談にしちゃ悪趣味すぎることはわかっていた。だから事実でしかないのだろう。そう思ったって、わかろうとしたって、受け入れることなぞできやしない。
だが月日は過ぎていく。しかたなしに、何かできることを考える。今更何をしてやれるだろう。
彼女の残していたものは何があったか。
二人で追った美柳ちなみは、既に死刑が確定していた。
千尋が追っていた、そして千尋を殺した男も、すでにケリがつけられていた。
両方とも、彼女の手によって。
残ったのは、
彼女の妹のこと。彼女が探していた母親のこと。
そして彼女の興した事務所とその現所長のことだ。
身体の治療とリハビリを始めながら、俺は俺流に捜査をはじめる。
千尋の妹を調べるだけで自然と、その男の情報も入っていった。調べれば調べるほど、納得がいかなかった。
千尋のそばにいたはずなのに、彼女を守れなかった。そんなヤツが後継者きどりで所長の座について。
それだけじゃねえ。
あの女の証拠品を隠し持って。何も知らず千尋を振り回しておいて。
それでいて千尋の関わった事件の解決に、なくてはならない存在であったなど。
認められなかった。
許せなかった。
自分がしてやりたかったことを全て持っていったあの男を、追い落としたかった。
それが無理でも、千尋が認めるだけの、本当にそこまでの男かどうか。その実力を確かめてえ、そう思った。
実力を確かめたいことも、その人生をめちゃくちゃにしてやりたいことも、本音だった。完全に目的を見失っていることはうすうすわかっていた。そのために俺のとった方法は千尋が望むとは、到底思えない方向のもの。
だがそれでも、止められなかった。
俺にとってまさに不幸中の幸いだったのは、ある程度の視力を再び手に入れられたことだ。あの無骨な仮面の細かい仕組みはよくらからねえ。予想外の副作用も出てくるかもしれないらしい。それでも飛びつく程に魅力的だった。
動ける身体を取り戻す、そのことに比べたら検事になることへの障害は、驚くほど少なかった。人材不足にも程があるぜ、と笑えてしまった。
警察からの情報で綾里舞子の情報はすぐに知れた。それまでの苦労がばかばかしい程だった。
予想以上にたやすく事が運んでいった。
そうして、ゴドーという検事の誕生はもう明日にせまっていた。
とうとうあの男に。千尋の後継者気取りの大馬鹿野郎を俺の手で。
その首根っこを捕らえてやる。
そんな気持ちで眠りについた。
そんな夜に、何故。
こんな夢を。
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