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 どれくらいの時間そうしていただろう。長く過ごしていた気がするけれど、実際は意外と短い時間だったかもしれない。腕の中の白髪の男。神乃木に似た彼と抱き締め合っているこの状況に、さまざまな感情が千尋の胸に押し寄せていた。
 千尋を抱き締める手は時折動いて角度を変える。吸い付くような指からは離れたくないという意思が直接伝わってくる。そして聞こえる苦しそうな、せつなげな溜め息。彼の、その低い声の。
 こみあがる気持ちに千尋は腕の力をこめる。彼を愛しく思えば思うほど、もっと彼を強く抱き締めたいと思う。いっそ何も考えず、彼に口付け触れ合いたい。がむしゃらに求め合ってもっと近くで、全ての悲しみを飲み込むように。もしかしたら泣いてるかもしれない彼の目元にもキスをして。その涙を悲しみを、少しでも拭い去りたい。
 だけど、それはできない。溢れる気持ちを飲み込むように千尋は歯をくいしばる。
 伝わってくる彼の悲しみに胸が痛んでも、切ない気持ちや愛しさがこみあげても、ダメなんだと千尋はこらえる。そう思うのも彼にそう言ったのも千尋自身だった。何より、千尋には彼を受け入れがたい理由があった。

“オレが殺した”

 おそらく今、誰よりも力がある弁護士、大事な恋人である前から、千尋の目標であり信頼している先輩。そんな大きな存在である神乃木荘龍、その彼自身を殺したという男のことを、千尋はどうしても認められずにいた。
 本当にそうだというなら納得できるはずがない。そんな神乃木荘龍なんて、自分は知らない。
 全てを憎んで否定しているかのような彼は見ていて痛々しい程に悲しくて、千尋は辛かった。
(どうして、そんな風に)
 どうしようもなく無力な自分が情けなくて、千尋の頬に涙がこぼれはじめいた。現実よりも涙腺が緩んでいるようだ。こらえたつもりの小さい嗚咽が聞こえたらしい。彼の体がぴくりと動く。
 どうせ気づかれてしまうなら、と千尋は先に声をかける。
「どうしちゃったんですか」
 案の定、涙声になっていた。彼は問いかけには答えず別のことを千尋へ問い返す。
「…どうして、アンタが泣く」
「泣いてなんかいません」
「クッ…そうかい」
 嘘がばれていないとは思わなかった。それを問い詰めないのは優しさなのか諦めなのか。問い詰められても腹がたったとは思うけど、と千尋は口を尖らせ、答えが返らないままのさっきの質問を繰り返した。
「どうしちゃったんですか」
 彼は答えずにただ顔をあげる。
「何で、そんな風になっちゃってるんですか」
 千尋を見つめるような顔の向きで、クッと笑う。
「アンタがそれを聞くのかい? 本当に…何も知らねえってのか?」
「知ってたら聞きません」
 その千尋の返答に彼はまた笑い、かと思えばひどく真剣な眼差しで。
「……言えば、アンタの未来は変わるのか」
 やけに重い響きに、息がつまる。
「それとも……こっちが現実か?」
 今までが悪い夢で、という風に問いかけてくる彼に、こんな夢の方を現実に思いたいなんてどれだけひどい逃避願望なのか、と千尋は不安になる。彼の目が見えていないことを少し忘れていたから尚更だった。
「それはないと思います。こういう夢、何度か見てるんで。未来…というのは、わかりませんけど」
 一息置いて、千尋は自分の顎に手を添える。
「たぶん無理です。起きたら忘れちゃうので…申し訳ないんですけど」
「…じゃあ、何を言ってもいいんじゃねえか」
「いいですけど、目を覚ますの早まるかと」
「クッ…! 話さなきゃしばらくこうしていられるってのか、うまくできてやがるな」
 苦笑ばかりの笑顔に千尋まで気落ちしてしまう。
「結局のところ…なにしても無駄だろうぜ」
 彼の言葉の端々にひっかかる。なんで、こんなことに。
「なんでそんな…」
「なにがだ」
 さっきからずっと、言って欲しくない言葉ばかり、見ていたくない姿ばかり。
「もっと強気に、前へ進めと言ってくれるのが、センパイじゃないですか」
「クッ…ははっ。……まだまだキャンデーがお似合いのコネコちゃんだ」
「! わ、私のことは聞いてません!」
「どうしたって叶わないことがあるんだ」
「だから、センパイはそんなこと言う人じゃ」
「……いったいどれだけ、そのセンパイとやらは理想化されてやがんだ」
 意地悪な笑顔とともにあきれた声を出され、千尋は言葉に詰まる。確かに自分の知らない一面は思う以上にあるのだろう、それでも。認めたくなかった。
「……言いたいなら、言えばいいじゃないですか」
「何をだ」
「私のことを『何も知らない』というほど、あなたが真実を知っているなら、…言えばいいんだわ。
 それで、さっさとこんな夢、…終わらせればいい」
「…………」
「……今のあなたを、これ以上見ていたくないから」
 傷つける言葉を千尋はあえて選んだ。半分は本心だった。
 大事な人をけなす言葉なんて聞きたくない。例え、それが本人であっても。
 千尋の言葉に、彼は力なく笑ってうなづく。
「ああ。そうだな、アンタは何も知らねえ」
 そしてまたふてぶてしく笑った。
「何べんでもいってやるさ、アンタのセンパイはもういない」
「…そんなわけ、そんなわけありません!」
 叫ぶような、自分でも驚くくらいの強い声が響いた。
 彼の笑顔が歪む。隠すように口元に手をあてる。
「……今にわかるさ」
 手をあてたまま、千尋にとって突拍子もない言葉を繋いだ。
「オレは、検事だ」
「は?」
 千尋はまぬけな声を出してしまう。かまわず彼は話を続けた。
「……明日。法廷に、検察側に立つぜ。無罪の被告だろうと容赦しねえ」
「なに、バカなことを」
「もういないのさ、神乃木弁護士も、神乃木荘龍もいねえ」
 またそれかと千尋はため息をつく。
「いるじゃないですか」
「ゴドーだ」
「え?」
「ここにいるのは弁護士じゃねえ。検事の、ゴドーだ」
「……それ、あの川の名前ですか」
「さあ、なんのことだ」
 ごまかされ再び大きな溜め息が出た。
「はっきりいって、まったく意味がわかりません。なんでそんなことに」
「人の心配する前に、自分のことを考えるべきだろうぜ」
 話しているうちに少し離れていたお互いの距離。そこから突然、千尋は両腕を捕まれる。
「いいか、忘れるな」
 見えないはずの目で強くにらまれる。もはや千尋すら憎んでいるような、怖いほどの勢いだった。千尋は思わず目をそらす。
「アンタにだってかなわないことがある」
 つかまれた腕が痛む。
「油断するな、一人になるなんじゃねえ」
「いた、痛いです」
 千尋の抗議は届かなかった。
「いいかチヒロ」
 聞いてくれないくせに聞けという彼を千尋はにらむ。けれどすぐにひるんでしまった。
「アンタはもっと誰かに。一人で抱え込まず、頼ればいいんだ」
 どんどん感情的になっていく声。泣いてしまうのかと思った。
「自分のことをもっと、安全な場所に置いて。あんな野郎でも、巻き込んでやれば…」
「そんなの」
 見ていられずに、そして聞き捨てならずに千尋は言葉を遮る。
「わけわからないこといって、私だけが助かればいいなんて。そんなのないでしょう!?
 自分のために、進んで誰かを巻き込みたいわけ、ないじゃないですか!」
 腕の力が緩む。何かに気づいたように彼の目が開かれる。それに気づかない振りをして。
「それに…」
 千尋は続ける。
「…神乃木さんには、だいぶ頼っちゃっているつもりでいるんですけど」
 やっぱり、それも足りませんか。そう続ける前に千尋は言葉を失う。
 寄せられた眉間に深い皺が刻まれ、彼の顔がひどく歪む。
 それが大きな手で覆われる。両方の、長くひどく骨ばった指が震えていた。

「……オレじゃあ、ねえ…」

 消え入りそうな声。
 その言葉の意味が。
 自分は神乃木じゃない、とまた言いたいのか。
 神乃木に頼っては駄目だということなのか。
 千尋には判断がつかなかった。ただ目の前の彼の、悲痛な様子を見つめる。
 深呼吸のようなため息が聞こえた後、覆われた手は戻され、再び彼は千尋の方に顔を向ける。手探りで今度は手を、ぎゅっと掴まれた。
「いいかチヒロ。油断するんじゃねえ」
「それ、さっきも聞きました」
 手を握った途端に安心したように目を伏せ、同じ言葉を繰り返した彼にどう対応していいかわからなくて、千尋はなるべく冷静に返した。
そんな態度に彼はきっとまた笑うだろうと思った。だけど彼はひどく真面目な顔のまま。
「チヒロ……」
  名前を呼んで苦しげな顔のまま薄く目を開け、懇願するように呟かれた言葉。

「死ぬんじゃねえよ…」

 聞こえたと思った瞬間だった。視界の横から強い光が射し込む。何もかもを忘れそうになるほどの強い光。自然、二人ともそちらに顔を向ける。
 はじめの一番強い光は気づくとすぐに収まっていた。かわりに遠くで、まるで地平線のような位置から赤い光がこちらに徐々に迫ってくる。
 暗い影でできたこの世界がひびわれ飲み込まれていく。その美しさすら感じられる光景に千尋は思う。
 夢が、終わるのだと。

 割れていく世界を見つめながら千尋は呟く。
「夢、もうすぐ終りですかね」
「……みてえだな」
 先程までのやりとりが嘘のような、ひどく穏やかな口調。
 彼もまた、千尋と同じく遠くの光を見ていた。そこに違和感はなかった。光を感じること自体は目を閉じていてもできるから。
「赤くて…綺麗ですね」
「…ああ…」
 その彼の言葉に千尋はどこか違和感を覚えた。けれどはっきり気付けずにいた。
 それよりも、赤という色、そのことを不思議に思う。
 ようやく、今までの世界に色がなかったことに気付く。そして今まで気づかずにいたことをまた不思議に思った。

 だけど彼は違った。千尋の言葉に相づちを打った後、何かに気づいたように目を見開く。
 そう、彼が気が付かないわけがなかった。
 強い光に何もかもを忘れそうなほど意識を奪われ、それがあまりに自然で気づくのが遅れた。
 目に写る光景は自然な景色とは程遠かったけれど。
 目に写る、そのことそのものに彼は、息が詰まる。
 大きくなる呼吸。静かに唾を飲み込む。
 ゆっくりと千尋の方へ顔を、顔より先に視線を向けていく。

 息が止まった。唇が震える。
 ゆっくりと意識して呼吸を整えた。
 千尋に触れていた手が離れる。
 そこで千尋はようやく光から目を離す。自分の手元まで視線を下げた後、彼の方へ振り向き驚く。
 再び顔に当てられた手、その影で表情は読み取れなかった。
 けれど、震えている手と大きな呼吸。その様子に、彼のもとに何かすごいことが起きたのはわかった。 手が動いてちらりと覗けた眉は苦しげによせられ、泣いているようにも見えた。
「神乃木さん…?」
 言ってすぐに千尋はしまったと自分の口に手をやる。千尋がこの名を口にするたび彼は不快な反応を見せていたから。
 だけど返ってきた反応は今までと違うものだった。
 ゆっくり目を明け、こちらを見る。その視線も今までとは違った。今までよりずっと、まっすぐでまるで。
「……見えてますか、ひょっとして」
 思ったままを口にした千尋に、彼は眉をよせたまま静かに微笑む。
 そのせつなげな、だけど今までよりずっと穏やかな笑顔に千尋の鼓動は早まる。そんな自分に動揺している千尋に彼は問いかける。その言葉に千尋の鼓動は更に早まった。

「キスしていいかい、コネコちゃん」



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