top


 綾里の力のせいか、不思議な夢を見ることがある。
 千尋は顔を上げ、すぐそばに立つ母の顔を見つめる。中学生になりますます育っていく千尋の体は、もうすぐ母と並ぶほどの背丈になっていた。だけど何故か、目の前のその顔は千尋が知る母親より、妙に年老いて見えた。
「また来てくれたのね」
 そう呼び掛ける声は、ほとんど変わらないような気もしたし、やはりどこか少し違う気もした。ただ『また』という表現に、急に記憶が呼び起こされた。昨晩見た夢だ。千尋は思い出す。
 そう、昨日も会った。お母さんに。

 昨日見た夢。それは今と同じ、ひどく印象的な夢だった。
 何かがあるようで何もない空間。真っ暗闇にも見えるのに何故か物は見えていた。無重力のような、まるで自分が飛べるような軽い体。水の上のように足元から広がる波紋。そんな現実感のない空間に千尋は一人いた。
 どこかから呼ばれている気がして千尋はふわりと跳躍し波紋を残しながらそちらに向かう。母の姿が目に入ると、急に体に重みが戻った。さっきまで水面のようだった地面は固くなり、裸足では少し冷たかった。装束姿と揃いの下駄をはいていないことに今頃気付く。
 足元を見ている千尋に母が声をかける。
「あなたもこの夢を呼べるなんて」
 千尋は顔を上げ母親を見た。
「やっぱり千尋の力はすごいわね」

 母の姿は昼間見た姿と同じだった。最近になって髪を肩の上まで切った。憧れていた長くて綺麗な髪を千尋はもったいなく思っていたけれど。
“軽くていいわ。それに…若返ったかしら?”
 そう笑う母が可愛らしく、短い髪の母も素敵だと思えた。家元の仕事だけでも大変なのに事件や裁判などという面倒ごとに巻き込まれた母の気持ちも軽くなればいいと、千尋は心底思っていた。そうじゃなきゃとても、やりきれない。
「来てくれてありがとう」
 誉められてお礼まで言われたのが嬉しくて、千尋の顔はにやける。
 それなのに母親の笑顔はどこか悲しそうで千尋の心は痛む。母の腕を掴んで千尋は尋ねる。
「お母さん、大丈夫? なんだかとても辛そうよ。
 無理しないで。裁判は勝ったんでしょ?
 勝手なこと言って騒ぎ立てるマスコミなんて…気にすることなんてないわよ」
 そんな千尋の様子に母は目を細め、我が子をそっと抱き締めた。
「ありがとう、千尋。あなたは本当にいい子ね。」
 母の温もりに安堵すると同時に、彼女の表情が見えなくしまったことに千尋は不安になった。母の声は震えていたから、余計に。
「それにひきかえお母さんは…、駄目なお母さんで、ごめんなさい」
「なんでそんなこというの?」
 千尋はいらついていた。誰もそんなこと、少なくとも私はそんなこと、言ってないじゃない。嫌な予感ばかりが浮かんで歯を悔いしばる。母の肩を押して彼女の顔を見る。もう笑顔ですらなかったひどく悲しそうな顔がやけに腹立たしかった。千尋は遠慮なしに母をにらみつけ再び問いかける。
「なんでそんなこと言うのお母さん! 一体なんなの? この夢はなんだっていうの?」
 涙が目にたまって母の姿がぼやける。どうして夢は、夢だとわかっていても妙に生々しいのだろう。そんな風に思考がそれる時間があるほどの間、母は何も答えなかった。もう一度千尋が声を上げようとしたそのとき、ようやく母の口が開いた。
「あなたに、すごく会いたい人が、……すごくそう思ったときに、
 その人が一番思い出せる頃のあなたを呼ぶの。
 あなたが、それに気付くことができれば夢が繋がる…」
「…その人の夢と私の夢が?」
「そう、お母さんも若い頃は気付けたから…何度か呼ばれたわ。
 お母さんのお母様やお婆様だったわね。
 目が覚めるとほとんどを忘れてしまうけど。その夢の間だけははっきり思い出せていたわ」

 その言葉で千尋は急に更に昔の夢を思い出す。そうだ、この光景を自分は知っていた。
「私、お父さんにも会ったわ、この夢で。まだずっと小さい頃」
「そうだったの…。きっとそれは、まだお父さんが元気だった、
 お父さんがあなたと、一番一緒に過ごせた頃だったんでしょうね。
 お母さんはね、もう少し後の頃に呼ばれたわ」
 連想した不安を千尋は躊躇せず問いかける。
「お母さんも、死んじゃうの?」
 目を丸くした母に千尋は息を飲む。すぐ出てこない否定の言葉、それがまるで肯定にしか思えず千尋は声を荒げる。
「嫌だからね! 死んじゃ…。里の恥とか汚名とか知らないよ、嫌だよお母さん、まだ真宵だって小さいし、私だってホントはまだ、でも頑張るから、お母さんも」
 だんだん自分でも何を言ってるか千尋はわからなくなっていた。今よりずっと小さい子のように泣きじゃくる千尋を母は優しく抱き締めた。だから千尋は必死にしがみついた。それでも母親からは否定の言葉はもらえなかった。ひたすら聞こえてくるのはごめんねという言葉だけだった。

 目が覚めたとき、千尋が覚えていたのはひたすら悲しい夢だと思ったことだ。
 それ以外の内容はろくに思い出せなかったけれど、あまりの悲しさに早く母に会いたくてたまらなかった。でも千尋が目を冷ましたときには母は既に出かけていた。帰りは夜遅くになると聞き、真宵を寝かせるのと一緒に千尋も先に眠った。

 そうして今晩、また同じ夢を見たのだ。
 ただ今度の母は、昨日会った母とはずいぶん違っていた。短く切っていたはずの髪は頭の上までまとめ上げられるほどの長さであったし、服装もまた、いつもの装束でも外行きの洋服でもなく、西洋の魔法使いのような不思議なマントをはおっていた。それに、しわも少し増えていた。
 夢の中、思考はぼやけているようで突然妙に鮮明になる。一気にめぐる思考、母の姿から導き出される一つの事実に千尋は戦慄する。
「お母さん、今のお母さんは、いくつなの?」
 その千尋の問いかけに母は少し目を丸くするだけで、何も言わずに少し寂しそうに微笑んだ。
「……昨日の夢で会ったお母さんが思い出すのも、今のお母さんが思い出せるのも、
 今の……同じ年の私なのね」
 それが何を意味するのか。
「……死ぬのは、私なの?」
 千尋の言葉に母の顔は一瞬歪む。それが答えのように千尋は思え、自分の発した言葉にうろたえる。だけどすぐに笑顔に戻った母を見て千尋は少し安心した。
「そういう発想になるとは思わなかったわ。
 あなたは本当に……賢い子ね、千尋」
 名前を呼ばれ千尋はくすぐったい気持ちになる。そういえば昼間には母に会えなかったから、やけに久しぶりな気がした。
「たしかに今のお母さんは、あなたが知るお母さんに比べたらずっとおばちゃんね」
 可愛らしく笑って話す母につられて千尋も笑う。
「でも、ここであなたに、先のことを伝えることはできないの」
「どうして?」
「伝えても、目が覚めたあなたはきっとそれを覚えていないわ」
「それなら、別にいいじゃない」
 覚えていないなら現実に何も影響がない。特に問題はない気がして千尋は腑に落ちなかった。
「それに…目を覚ますまでの、つまり夢が終わる時間が早まるわ。たぶん、かなり」
「そうなの?」
「ええ。だから話したくないわ。これはお母さんのわがままだけど」
 あなたともう少し一緒にいたいから、そう続いた言葉に千尋は口元に手をあて、自分でも恥ずかしいくらいにもじもじとしてしまう。家元として忙しくなった母と二人きりで過ごせる時間などもとから少なかったが、真宵が産まれてからは尚更だった。
 だから千尋はなんだか嬉しかった。同時に、不安にもかられた。
 いつ母との別れがくるのだろう。
 体が弱い自覚はない。急に事故にでも遭うのだろうか。取っ組み合いのケンカをしたり、高いところから飛び下りるような危険な遊びはそろそろ控えようかと千尋は思う。
「この夢はね」
 母の声が千尋の意識をそちらに戻す。
「あなたに、すごく会いたい人が、その人が一番思い出せる頃のあなたを呼ぶの。
 あなたが、それに気付くことができれば夢が繋がる」
「うん。昨日聞いたわ」
 千尋は腕を組み、片手を口元に当てる。
「……今思えば確かに昔、お父さんにも呼ばれていたの。
 急にやつれたお父さんが出てきて、すごくびっくりしたわ。
 でも私と話すお父さんはとても嬉しそうだったから、よかったって思ったの。
 ずっと忘れていたし、今もなんとなくしか思い出せないけど」
「そう。……きっとその頃に、お父さんは覚悟したのね」
「覚悟?」
「ええ。今日は、前に言えなかったことも話すわ。
 この夢は……千尋、あなたが大事で、あなたにすごく会いたい人が、
 あなたとの別れを……そして今生との別れを、決心したときに、見るの」
「別れ…?」
 うなづく母の顔から笑みは消えていた。いつの間にかその手には大きな杖を持っている。美しい水晶が飾られた木製の杖はますます母を魔法使いのように見せた。
「お母さんはね、……千尋、あなたには本当に……顔向けできないのよね。」
 苦笑する母の顔はとても悲しかった。
「最初は分家として生まれ育ったのに、急に家元の、本家の娘として扱われるようになって。
 お母さんが大変なときには文句言いながらもいつも励ましてくれたわよね。
 真宵が産まれてからもたくさんお世話してくれて。
 あなたは苦労ばかりかけて、それなのに何も。
 ……本当に何も……してあげられなかった…」
 目に涙をたたえた母に千尋は何をいっていいのか分からずにいた。
 たしかに千尋は、母が何もしてくれないと思ったことがない訳じゃなかった。家元になって以来、母は自分たち家族のことよりも家元としての仕事ばかりで。せっかく産まれた妹の世話も、今では自分の方がよっぽど見ていて。その妹が産まれる頃、家元の娘になった途端に変わった周りの態度もまたわずらわしくて。だから母や妹やこの里が嫌になることも逃げたいことも、何度だってあった。
(でも頑張ってきたのに。)
 千尋は歯を食いしばる。
(お母さんだって、家元として頑張ってることを気付いていたから。気づいているのに。
 お母さんが何もできてないなんて、そんな風には思っていなかったのに。)
 わかってもらえてなかったのかと怒りを通り越して千尋は悲しくなった。涙ぐむ視界とともに、何もなかったはずの景色が妙に明るくなっていく気がした。母は一度うつむき涙をぬぐって、すぐ顔を上げた。いつの間にか母のいる方向が逆光になっていき、千尋は眩しくて目を閉じた。
「それなのに、会いにきてくれてありがとう」
 聞こえたその言葉に千尋は再び目を開く。母の笑顔が滲んでいた。その奥で、遠くに光る地平線がひびわれていくのが見える。もう夢が覚めるのだと千尋は直感した。
 息がうまく吸えなかった。夢なのに、息が苦しい、声が。
「せめて今からでも、あなたにしてあげられなかった分も、頑張るわ。……この命に変えても」
「お母さん!」
 光で何も見えなくなる視界に、千尋は声を絞り出して叫ぶ。何度も。何度も。
「お母さん、お母さん! お母さん…!!」

 目が覚めて、しばらく現実との境の区別がつかないまま荒い呼吸を千尋は繰り返す。隣の真宵の泣き声で意識がはっきり蘇る。妹をあやすうちに思考能力も戻ってきて、千尋は夢の跡を探る。
 昨日の夢で会ったときよりも年老いた母、やっぱり自分はきっともうすぐ死んでしまうのだろうと千尋は思った。真宵の世話はどうなるのだろう。母は忙しくずっとは無理だ。今だって学校から帰ったら自分の出番だ。考えるうちにだんだんと夢の内容が薄れていった。もう、思い出せなくなっていた。
 母と別れる悲しい夢を見た。最後にはそれくらいの認識になり、母の顔がひどく見たくなった。もう帰ってきているだろう。千尋はそう思い、真宵を抱えたまま母の部屋に向かう。疲れてまだ寝ているかもしれないと思って、そっと障子を開く。
 だけど、そこには布団すら敷かれていなかった。ただ一通の手紙がおかれていた。
 そうして、千尋は気がついた。
 いなくなるのは、自分でなく母だったのだと。

 いつの間にか、夢の内容はまったく覚えていなかった。だけどなんでか千尋は自分はもう母に会えない気がした。でも急げば間に合うもしれない。自分は無理でも真宵だけでも。
 だから出来るうちに出来うる限り前に進みたいと思った。もしかしたら、間に合うかもしれないから。

 何故か自分は短命かもしれないと思ってた時期があったのはこの夢のせいだったのだと、白髪の男を抱きしめながら千尋は思う。ありがたいことに予想より長生きしていて、そんな焦燥感はだいぶ薄れていたけれど。消えずに残っていた理由が今、ようやくわかった気がした。


前 次

top

up<2010/07/04>