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 合わせられた唇は少し乾いていた。だけど触れられた手よりずっと暖かく、千尋は少し安心し自然と瞳を閉じる。
 震えながらの口付けに千尋まで緊張がうつったのも束の間。そっと慎重に入り込んだ舌は千尋のそれを捕えると次第に性急な動きへと変わっていった。むさぼるように絡まる舌が離れたかと思うと上の歯を軽く撫でられる。そのまま上顎を舐めると同時に彼の口が大きく開かれ、千尋の鼻の近くまでかぶりつくようにくわえる。鼻の下まで届く彼の上唇に千尋はなかば呼吸を塞がれ、息苦しさに声が漏れる。
「…んッ……」
 押さえていた息の乱れが強調されたような自分の声に千尋は余計に心をかき乱された。唇が一瞬離され、今度は再び舌をからめられる。その間にも彼の両手が頬から耳元や頭に動かされる。
 全ての感触に千尋はどんどん夢中になっていった。そして意識せず薄く目を開いてみた瞬間、現れた白髪の姿に千尋は驚愕した。目を閉じ口付けを受けているうち、いつの間にか。今自分に触れている彼のことを、自分の知る神乃木の姿で思い描いていたことに気づく。ケンカ中というか気まずい状態だったことまで突然思い出し、それでも自然に神乃木が頭に浮かんでいたことに千尋は悔しくなる。それと同時に、今のこの状況は、神乃木にも目の前の彼にもひどく申し訳ない。そんな気持ちが今になって急に沸き上がった。混乱してうろたえた千尋は、急いで顔をうつむけて唇を離す。
「あ、あの」
 そのずらされた顔に逆らわず、頭を合わせながら彼の唇は千尋の耳元に行き着く。
「え、……んンッ…!」
 軽く吸われたかと思えば容赦なく舐めあげられ、口付けで火照りはじめていた千尋の身体は素直に反応してしまう。彼の片手が千尋の首筋に触れ、ゆっくりと撫であげながら下へと降りていく。鎖骨から胸元へ入り込んでいく直前に千尋は慌てて叫ぶ。
「や、ちょっ……待ってください!」
 動きが止まったのも束の間、彼の手は千尋の胸を服の上から触る。待てねえという態度がありありと見えて千尋は怖くなる。首筋に口付けてきた彼に言い募る。
「待って…やめて! 神乃木さん!」
 千尋のその声に、彼の動きがぴたりと止まった。ゆっくりと、体が少しだけ離される。ホッとしたのは一瞬で、目の前の彼の表情に千尋は怯えた。
 薄く目を開け千尋の方を見つめるその顔。
 見慣れない色の目も口許に浮かぶ笑みも何故か、ひどく……、怖かった。

「……止めにきたのか、…コネコちゃん。」
「え。」
「オレを止めにきたんじゃねえのか? ……わざわざ、こんな夢まで見せて」
 嘲笑混じりの声だった。それがどちらへの嘲りか、千尋には確信できずにいた。
「アンタの可愛い弟子を追い落とすために、真実だって螺子曲げちまおうっていう……このオレを。」
 続いた言葉は更に、千尋には理解しがたいものだった。いつもの神乃木の意味ありげな口調による意味不明さではなく、ごく普通に、意味が分からなかった。千尋はしかたなく、素直に思ったままを尋ねる。

「いったい、何言ってるんですか? 神乃木さん……」
「クッ……!」
 神乃木の顔が歪む。口元の笑みは余計に深まり、ひきつるように見えた。
「……そんなヤツは、もういねえ。」
「…は?」
 目の前にいる人が何を言うのかと呆れ、千尋は少し間抜けな声で返した。そのせいか、次の瞬間神乃木の低い笑いがこだました。本当に可笑しいときのものとは明らかに違う笑い方。それは、千尋がさっきからずっと感じている違和感だった。何故、この人はこんなに、憎しみの塊のような。
 彼の口元の笑みが消える。その無表情さにも心が冷えた。
「アンタのセンパイは、もういない」
「……」
「弁護士・神乃木荘龍は……死んだのさ」
「! ……ふざけないでください!」
「オレが、殺した」
「なっ」
 千尋は一瞬、言葉を失った。
「な、なに…馬鹿なことを言って…」
 怖かった。とても。目の前の彼が、とても。
 嘘を言ってるように、見えなかったから。

……本当に、何も知らねえのか…?」
 千尋は答えなかった。いや、答えられずにいた。
 神乃木でしかあり得ない男が彼を殺したと、本気で言っている。
 今まで確かにあった千尋の確信は揺らぎ、混乱していた。ただ目の前の彼の存在が恐ろしくて、この場からすぐにも逃げ出してしまいたかった。
「クッ…! まったく、我ながら都合のいい夢を見たもんだ…」
 あきれちまうぜ、そう小さく呟いて彼は再び千尋に顔を近付ける。それに気付いた千尋は彼の体を力いっぱいはねのけた。逃げ出そうと立ち上がった千尋に彼の手が伸びる。足首を掴まれそうになったものの千尋はなんとか振り払った。裸足で助かったと千尋は思う。こんな何もない空間ならその方がずっと早く走れる。
「チヒロ!」
 自分を呼ぶ声に耳を傾けず、千尋は走り出した。
「待て、……待ってくれ! チヒロ…」
 あまりに痛切な声、しかもそれが即届いたことに千尋は驚き戸惑う。思わず速度を緩め顔だけ振り返る。すると立ち上がろうとした彼の長い足がもつれ、そのまま見事に転ぶのが見えた。千尋は目を疑って思わず立ち止まってしまう。膝をついた状態の彼が辺りを見渡す。千尋の方を向くことがあってもそのまま首を回し続けていた。
「どこだコネコちゃん」
 どこも何もないでしょう、そう思いながら千尋は彼の様子を見つめる。そして思い出す。
(あ、そういえば)
「チヒロ……」
 目の調子が悪そうだった。あまりよく見えてないのだろうと思っていたけど、もしかして。それどころではなかったのだろうか。
「頼む、チヒロ……そばにいてくれ」
 大きな手を目元に当て、彼は肩を落としうなだれる。
「……見えねえんだ。今のオレには、何も」
 大きく息を吐いて、続ける。
「クッ……! 夢だってのに……まったく、おかしな話だぜ」
 そうやってはっきりと言葉で聞くまで、千尋は彼の目がまったく見えていないとは思ってなかった。確かに違和感はあったけれど、見えていないにしては十分に千尋に向かって話しているように見えていたからだ。
 だけど確かに、一度それに気づくといろいろなことに合点がいった。
 さっき彼がつまづいたとき、そして千尋が走り出したときにはっきり感じた違和感。物と物がぶつかる音が何もしなかった。つまりこの世界では、何故だか声以外の音がないようにしか思えなかった。そしてもしそうだとするならば、尚更。今の彼が千尋を見つける術はないに等しかった。千尋がこのままじっとしている、ただそれだけで。彼にはなんの手がかりも得られない。
 だから彼の目が見えてないのは本当なのだろうと千尋は思う。だからこそ、彼はすぐに千尋を呼び止めた。彼の声の悲痛な響きは、彼女を見つける術がないその必死な思いからだったのだ。

「アンタが嫌がることはもうしねえ。だから……触れさせてくれ」
 その言葉を聞いて、千尋はゆっくりと彼に近付く。すぐ目の前まで近づいても彼が顔を上げることはなかった。千尋の胸が痛む。まるで自分が悪いことをしている気持ちになっていった。
「チヒロ……頼む…」
「……本当に」
 千尋のそんな一声だけで、彼の顔が一瞬で上がる。見えていないはずの目を見開いて。そのがむしゃらな様子に千尋は戸惑う。妙に胸が高鳴ってしまった。動揺を抑えながら話を続ける。
「本当に、もう……変なことしませんか?」
「クッ……! 変なことってなんだい」
 そんな軽口に千尋は脱力した。本気で頼む気あるのかしら、と呆れてため息をついてしまう。
「わからないならダメです」
「スケベなことするなってことか」
「……わかってるなら聞かないでください」
 だって変なことじゃねえだろう、そう聞こえてきそうに目を細め拗ねた彼の顔。それに千尋は再度ため息をつきたくなった。だけど彼はすぐに少し苦しそうに眉を寄せ、答えた。
「しねえよ。アンタがそう望むなら」
「本当ですね?」
「くどいぜ。……約束する」

 千尋はようやっく決心して、彼の前に膝をつく。そのままゆっくり、恐る恐る彼の手に触れる。すぐに握られた手。
 ちょっと、痛いですよ。そう言う間もなく体を探られ、しがみつくように抱き締められる。
「ちょっと…」
(だまされたわ…!)
 そんな心の叫びを口にしようとしたそのとき。彼の声に遮られる。
「このまま…」
「え」
「アンタのいう、変なことはしねえ。……だから、このまま、いさせてくれ…」
 顔は見えなかった。だけど声色と、しがみつくように触れてくる体から伝わる、悲痛なまでの強い感情。その思いに切ないくらいの愛しさがこみあげてくる。
(そういえば、私も)
 母にしがみついた気がする、以前のこの夢で。
 そう千尋は思い出した。途端、思い出の奥底から泣き出したい気持ちがどんどんこみ上げてくる。
 それはきっと、今自分にしがみついている彼と同じ気持ちだろうと千尋は思った。自然と千尋は彼の背中に腕を回す。
 少しでもいいから、できるかぎり彼を悲しみから救いたいと思った。どうしようもないことでも。少しでも心の痛みを和らげられるように。その背中を撫でる。いつかのあの夢で母が私にしたのと同じに。それはまるで、泣いてる子どもをあやすように。その背中をそっと、ずっと。


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