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 横たわる彼のそばで、千尋は静かに膝を突く。動かない彼を見下ろす。神乃木に似ている、たぶん本人だと思われる男。
 千尋の知る神乃木との一番の違和感は、その真っ白な髪だった。普段に比べ少し伸びている気もする。これくらい見事に真っ白だと、いっそ綺麗だとも思った。
(ずいぶん、おじいちゃんになっちゃって。)
 そう思って顔を見ると、また別の違和感があった。神乃木よりずっとやせているのだろう。頬はくっきりとこけ、やつれた様子は彫り深い顔立ちを一層際立たせていた。目の下にはひどい隈ができていて、目と鼻の間の肌に、一筋の短い線があった。特に鼻に近い辺りに、何かをあてられていた痕のようなへこみが残っている。
(この位置にできる痕は…眼鏡? ゴーグル?)
 だけど、違和感の正体はそこではなかった。顔だけじゃない、全体的な体格を見ても。千尋の知る神乃木よりはずっとやつれていたけれど、それでも。
 真っ白な髪の印象に反して、ずいぶん若く見えた。もちろん若者でもないけれど、どうしたって老年ではない。せいぜい壮年だ。

 じっと見つめているうちに、千尋はまた別の違和感を覚えた。妙に静かで、まるで…
(息、してるのかしら…)
 千尋は不安になって顔を近付けた。呼吸の音が聞こえるよりも前に彼女の長い髪が彼に触れ、首元から頬を撫でる。その途端漏れた彼の吐息と寄せられた眉に千尋の心臓がはね上がった。叫びそうになったのを抑え、千尋は慌てて体を起こす。その動作や息遣いが聞こえたのだろう。
「……誰か、いるのか…?」
 知っているよりずっとかすれた声が響く。千尋は返事ができずにいた。確かに神乃木の声だと思ったけれど、その声色があまりに……どこか怖かったからだ。
 朝、寝起きで余裕をなくしてる神乃木を見たことがないわけでもない。けれどそういう、眠いとか不機嫌とかいう言葉で表現できるレベルのものではなかった。それはまるで……この世のなにもかもが、敵かのような。
 深くしわをよせた眉間を隠すように、彼は自身の額に手を置き深くため息をついた。
 どうしたものかと千尋がためらううちに、床についていた手に何かが触れる。彼の手だ。彼が目を閉じたまま手探りで、何かを探していたのだろう……そう気付く間があるかないかだった。
「きゃあッ」
 突然手を強く掴まれ千尋は声を上げた。途端、彼は息を呑み目を見開いた。
「チヒロ…ッ?」
 勢いよく起き上がると同時に発せられた問いかけ。間近になる顔と顔。見たことのない瞳の色。泣きそうに見えるほど歪んだ目元。
 そのすべてに千尋の鼓動は早まった。
「は…はい…」
 その返答に彼の目が更に見開かれ、千尋を掴んだ手は彼女の腕まで移動する。目を細めたり瞬きを繰り返すように千尋を見つめた後、彼はもう一方の手で目元をおさえ顔をしかめる。舌打ちの音。目の調子が悪いようだった。そういえばさっきから、彼の視線はどこか焦点があってなかったと千尋は思う。瞳の色の薄さが見せた錯覚かと思っていたけれど、違ったようだ。
 うつむいてしまった彼を千尋は見つめる。
 瞳の色まで違うなんて、本当に神乃木なのだろうか。千尋はそんな疑問を浮かべながらも、それでも別人だとも思えなかった。ただの直感ではあったけれど。それに加えて「この世界の夢にでてくるくらい自分と深く関わる人物」、そう思うと尚更、他の人物ではあり得ないと確信していた。
 ただあまりの姿の違いに関して……そこには千尋も戸惑っていた。
 見事に綺麗な白い髪。だけど髭はそうでもないようだった。耳に並ぶ銀のピアス。襟足からネクタイへと視線を動かして千尋は更に違和感に気付く。白いネクタイ…少しめずらしいと思って、そんな自分にこそ千尋はおかしくなる。これだけ違う彼に、今更めずらしいも何もないだろう。
(そうね……髪に合わせたセレクトかもしれないわ)
 千尋はそう分析してみた。ひどく印象的なその髪に、触れてみたいと胸が騒いだ。

 そんな思考を一瞬のうちに巡らしていると、彼が首を降る姿が見えた。直後、千尋の体に彼の手が伸びてきた。そのまま手当たりしだいに全身を素早く撫で回され千尋は叫ぶ。
「きゃああああッ…」
 上げた声を追うように、彼の手が千尋の口に行き着く。触れた指の感触に千尋は震えた。ひやりとしたのはその指が冷たかったせいだけじゃない。千尋は、どこか怖かった。冷えたその手はそのまま千尋の頬にずれていき、反対側の頬にはもう一方の手が添えられる。瞳を閉じたまま、ゆっくりと近づいてくる彼の顔。浮かんだ予感に千尋は体をこわばらせ目をぎゅっと瞑った。だけど彼の次の行動は、千尋の予期したものではなかった。
 両頬に添えられた両手はゆっくりと耳元へとずれていき、髪を梳きながら襟足までを撫でていく。そこからまたゆっくりと前方へ、顎から頬へとだんだんに戻ってくる。そのまま今度は親指が千尋の唇から鼻へ、鼻筋から目元まで、まるで確認するかのようにゆっくりと、少しずつ撫でられていく。目尻まで行き着いた彼は一度動きを止めて嘆息する。千尋はどうしていいか分からずにいた。ただただ緊張で、呼吸が止まりそうだった。動きを止めていた彼の手が、今度は千尋の額までゆっくりと上がっていく。目元の感触が失われた千尋はおそるおそる目を開く。彼の顔が間近に見えた瞬間、千尋の額に彼のそれが当たる。少し上向きになっていた千尋の額に優しく乗せるように。その感触と同時に飛び込んできた彼の顔。眩暈がしそうだった。閉じた目に並ぶ濃い目の睫毛に見とれてしまい、千尋の胸はしめつけられる。髪に比べ違和感がない睫毛の色に、安堵と少しだけ寂しさを覚える。横に目を逸らすと視界の端に白い髪が見える。触れたい。そう思ったことを思い出し、両端に力なく垂らしていた千尋の腕に力が入った。ゆっくりと片手を持ち上げ、彼の耳元に伸ばしていく。耳の上から頭の後ろまで、彼の髪を撫でるように梳いた。瞬間、額に当たる感触がぴくりと揺れた。
(あっ……)
 しまった、と千尋は思った。この動きはまるで。自分から引き寄せたような。
 間近に見える彼の顔。その目がうっすらと開き、すぐに閉じられた。千尋の知らない瞳の色。それに恐怖と扇情が混じる。
“目の前にいる彼は、私の知る彼じゃない。” 千尋はそうわかっていた。けれども同時に。
“目の前にいる彼は、神乃木荘龍その人だ。” そういう確信があった。だから。

 頬に触れる少し震えた手を。チヒロ、と囁く低い声を。重ねられた唇を。

 拒むことなんて、とてもできなかった。



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up<2010/05/17〜>