綾里の力のせいか、不思議な夢を見ることがある。
何かがあるようで何もない、広い空間。真っ暗闇にも見えるのに何故か視界はきいて物は見える。無重力のような、まるで飛べるような軽さの体。水の上のように足元から広がる波紋。そんな現実感のない空間に千尋は一人いた。
(この夢を、私は知っている。)
そう千尋は思う。同じような夢を前にも見た。これは何度めだろうと千尋はおぼろ気な記憶を探る。たしか、なんだか嬉しいような、同時にすごく悲しかったような記憶。
考えるうち、どこかから呼ばれている気がして千尋は振り向く。おそるおそる足を伸ばし、そちらへ向かって歩き出す。だんだんこの空間特有の軽い体に慣れていき、ふわりと跳躍する。波紋を残しながら、自分を呼ぶ方へと千尋は向かう。
(そうだ、最初はお父さんだ。)
ふわりと飛びあがりながら、千尋は夢について思い起こす。
千尋がまだ幼い頃、父もまだ元気だった頃なのに、夢の中に現れた父のひどくやつれた姿に驚いて。でも自分の隣ですごく幸せそうに笑っていたから、なんだか嬉しかった。
次に会ったのは、母だ。あれは千尋が中学生になったばかりの頃だった。あの日の……母が姿を消す、その直前に、二度。
(そうだわ、だから……)
悲しい夢だと思ったのだと、千尋は納得する。
今までこの夢に現れたのは、今はもういない二人。
やつれた父親と悲しそうな母の姿が頭に浮かぶ。これはそこに現れた人との別れを、どうしたって想起させられる夢。
千尋は震えた。飛び上がる高さも速度も勢いが弱まる。それでも、進むのをやめることはできなかった。
現れるのはきっと、私に会いたい人。それは私にとっても。会いたい人だと、そう思ったからだ。
かつての夢の中の母は、この不思議な夢のことを知っていた。そこで母が説明してくれた内容はまだ、なんとなくしか思い出せない。
目的地に近付いている。そんな予感に千尋の鼓動が早まる。誰が現れるのだろう。
父のはずはない。会うのはたいてい未来の相手だった。父はもうとうにいない。
母でもないと思った。母とはもう二度会った。そして二度めに会った母は千尋が知る母より年を重ねていた。
「そうだ、だから」
思い出した事実に驚き千尋は思わず呟いた。その自分の声がいやに響いたことにも驚いて、とうとう千尋は立ち止まった。
もう自分は母には会えないと思ったのだ。
あの未来の母が知る私は、母がいなくなったあの頃の私までなのだと。
それでも千尋は、その先の母とならいつか会えるかもしれないと思っていた。もし自分が間に合わなくてもせめて真宵が間に合えばいい。そう思ったからこそどこか急いで生きてきたのかもしれない。いや生き急いでるつもりはないけれど、得体のしれない焦燥感は常にあった。
いつか必ず、母をおいやる原因となった脅迫者に決着をつけるために急がなくてはと思っていたし、父母がいなくなってからはどうしようもなく醜く見えてしまった里だけど、真宵のためにももう少し復興してほしいとも。それでも現実的なことはなかなか何もできないことへの苛立ちや、真宵までは失いたくないということにまで思いは巡る。
そうして妹のことが頭によぎった途端、千尋の思考は更に沈んだ。
(まさか、真宵?)
身体中の力が抜けていき、千尋はへたりと座り込む。
どうしよう、真宵だったら。この夢に現れるのが、真宵だったらどうしよう。目の前に広がる世界が底知れない闇に見えてくる。
大切な妹。今ではたった一人の近しい家族。
また置いていかれてしまうのかしら。それとも、今度は私が?
嫌な連想に千尋は首を振り、力なく苦笑する。
(私だって、今は真宵を里に置いてきているのに。)
何を今更、そう思ったからだ。
いつか母に会えたら恨み言のいくつかを山ほどぶつけたいところだったけど、今ではあまり母を責めれない気がしてきた。
(勝手なところも母ゆずりなのかしら。)
千尋は少し落ち込む。しばらくしゃがみこんだ後。うつむいていた顔を上げゆっくり立ち上がる。
呼ばれている気がするのだ。この先にいるだろう夢の持ち主から。それが誰なのかを確かめるのは怖いけれど。
千尋は再び飛び上がった。
“でも、会いたい。”
そう思っていたから。
妹か、はたまた、二度あることは三度で母なのか。そっちならいいなと考えるどこか呑気な自分がなんだかおかしくて笑う。ふと、真っ暗だった視界に地面が見える。遠目に、横たわる人影が映る。
その姿に千尋はぎくりとして息を呑む。
同時に、ずっと軽かった体に急に重みが戻った。さっきまで水面のようだった地面は固くなり、裸足では冷たかった。靴をはいていなかったいことに千尋は今まで気付かなかった。今も気付いていなかった。冷えるのは別の理由に思えた。
足元から続く地面に横たわる“彼”がいた。その事実に全身が凍りそうだったから。
震える体に、早まる鼓動を無理矢理押し込めて、千尋は静かに彼に近づく。
四方に投げ出された長い手足。彫りの深い顔立ちは目を伏せていた。髪の色が違う上にひどくやつれていたけれど、彼に違いないと思った。この夢に現れるほど自分に深く関わっているのであれば、ただのそっくりさんなんかじゃない。だけど、それはつまり。
千尋は震えを止めるように自分の両腕を抱え、寒さに噛み合わずにいた歯を食いしばる。
ずっと家族ばかり連想していた。だから考えもしていなかった。考えが及ぶことすらなかったことに、千尋はいっそ笑いたい気持ちになった。
(……神乃木…さん…)
その呼びかけは、声に出せなかった。
この別れの夢が彼とのそれだとは、どこか認めたくなかったから。
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