「アンタは」
小さく息をはく音。
「オレがアンタを想うほどは、オレのことを好きじゃないんだろうぜ」
耳を疑った。
まさか目の前にいる彼が、いつも不遜な態度を崩そうとはしないこの彼が、そんなことを言うとは。夢にも思わなかった。
言葉を失い目を丸くした千尋のせいか彼自身の発した台詞のせいか、いや両方ともだろう。失言だった、そういう後悔があきらかに見てとれる程に神乃木は顔をしかめ視線を反らした。その様子にも千尋は尚も固まる。らしくないにも程がある彼の態度。それに呆然としていると、クッと小さく笑う声が聞こえた。
「たしかに、疲れがたまってるみてえだ」
いつものふてぶてしい笑顔を見せた後、彼はそう呟きその場を後にした。もともと別行動の予定でいたから、そんな言葉だけで一旦自分の席に戻り、外での調査へ向かっていった彼の行動は不自然ではない。だけどふてぶてしい笑顔は自嘲にしか見えなかった。おそらく間違ってはいないと千尋は思う。
いったい、なんだってそんな話になったのか。
千尋は困惑しながらゆっくり席に戻り、書類を机に置いた。そして先程の会話と、最近の経緯を思い出し理由を検討し始めた。
まず、本題はこれだったはずだ。
“忙しいからしばらくの間、二人きりでゆっくり会えそうにない。”
そんなありがちな話。
早朝のまだ人気のない事務所。最近神乃木が担当した裁判に関する書類、そのうち千尋がまとめられるものを渡され指示を受けた後のこと。妙に真面目な顔で持ち出された話だった。
千尋が神乃木と仕事上だけでなく恋人として付き合いはじめてからしばらく経っていた。今までは無理すれば二人の時間は多少なりとも作れた。でもだんだん、その無理がより無茶なレベルになっていた。神乃木の抱える仕事は多く、その上千尋が追い続けている事件の調査まで手伝ってもらっている。もちろん千尋の方もできる範囲で神乃木の仕事を手伝っているけれど、だからこそ彼の仕事量はよく知っている。正義のヒーローのようにパワフルに仕事をやり遂げていく彼にも、ある程度の休息が必要なこともわかっていた。だから。
しばらく二人で会えそうにない、その事実をつきつけられても納得できてしまった。寂しくないと言えば嘘だったけれどそこまでショックではなかった。会えないと言ってもほぼ毎日仕事で顔は合わせる訳だし、時間が作れない程慌しい彼のスケジュールも千尋ははっきり知っている。不安になることはない。
「しかたないですよね、今は」
忙しい彼に余計な心配をかけたくなくて、千尋は笑顔で答える。
「わかってますから、平気ですよそれくらい」
強がりではなく、実際そんな気もした。綾里の生まれのせいか、千尋はそこまで色恋沙汰を重視できずにいたし――だからこそ大切でもあったけれど――仕事に影響をきたすのは好ましくないと思っていた。実際それなりに支障がではじめていて、これ以上ペースを乱されていくのも怖かった。千尋だけじゃなく、神乃木自身がそうなってしまいかねない気がしたことも。
だから会えなくとも、それで神乃木の休息が少しでもとれるなら、自分のペースが守れるなら、仕事がはかどるなら。その方がいいのかもしれない。寂しさと同時に、そうも思えてしまった。つまりは。
「休めるときはしっかり休んで、ちゃんと疲れをとってくださいね」
寂しさより、安堵の気持ちが勝ってしまった。
そんな気持ちが透けて見えた千尋の笑顔と声色、それが彼を落胆させたようだった。
「クッ…! ……ああ、そうだろうぜ」
神乃木は一度目を閉じ大きく息をついた。そして何かいいたげな、しかも不満そうな顔で千尋を見つめる。
「……チヒロ」
「はいっ」
すぐにそう返事しながらも、やけに申し訳ない気持ちで千尋はギクリとしていた。いくらなんでもさっぱりしすぎたのかもしれない。この話を出した時の彼の真面目な顔は、たんに寂しさからだったのかもしれない。急にそう思えてきて先程受け取った書類を握る手に力が入る。私も寂しくないわけじゃないんですよ、と今からでも付け足すべきかしら。それとも言い訳に聞こえるかしら。千尋が考えを巡らすうちに神乃木が口を開く。
だけど続く言葉は聞こえなかった。しばらくの間が出来た後、神乃木が首を振った。
「……いや、なんでもねえ」
「え。」
きょとんとする千尋の胸元に抱えられた書類を指差し、神乃木は口の端を上げた。
「そっちは任せたぜ。コネコちゃん」
いつもの態度でそう言い自身の席の方へ振り返る。そうやって話を終わらせようとした神乃木を引き止めたは千尋だった。
文句があるなら言ってください、と先を促した。自分の態度がまずかったんじゃないかと不安で、尚更むきになった。いっそ不満を、ちゃんとぶつけておいてほしかった。
「いや、文句じゃねえさ。ちょっぴり……気づいちまっただけ、だぜ」
「いったい何ですか?」
「たいしたことじゃねえ」
「それなら言ってください」
ちょっとやそっとの言い訳じゃ納得しそうにない勢いで千尋は詰め寄る。そうして、明らかにいいよどんでいた彼に最後まで言わせたのは千尋自身だった。そのことにも今は後悔していた。“もっと寂しがってくれ” とかそんな言葉をどこかで期待していたのだろう。今思え返せばそうだったのだと思う。それなのに実際聞こえた言葉は、もっと違うものだった。
“アンタは”
“――オレのことを好きじゃないんだろうぜ”
考えてもみなかったことに呆然とした。そう、呆然としすしぎて何も反応できなかった。だけれど今は。
ものすごく、心外だった。不満で不本意で不愉快で不可解で。それはもう、ものすごく腹立たしくなっていた。
(……なんで。なんで、そんなこと思われなくちゃいけないのよ!?)
千尋は机にドンと肘を突き眉間に深く皺をよせた。
たしかに、今まで彼が付き合ってきた女の中では、もしかしたら冷たい方なのかもしれない。彼のあの、容姿も声も言動も性格も振る舞いも、腹立たしくなるほどちょっぴりかっこいい部類である。それが嫌じゃない女なら夢中になるのも当然で、《彼のために生きていける》というところまで行き着くかもしれない。それが普通の恋する乙女なのかもしれないし、彼の周りでそういうタイプが多かったのであれば千尋は間違いなく冷めた部類に入ってしまうだろう。それでも。
好きじゃない訳なんか、そんな訳は全然ない。それだったら、そもそもこんなややこしい気持ちにならない。
(そうよ、好きじゃなかったら、こんな。こんな気持ちには…)
いろいろと思いがこみ上げてきて、知らず歯をくいしばる。
(……それにあんなことや、あれとかそれとか、あんな態度やあんなこと……するわけないでしょう!)
ものすごくいろんな場面を回想してしまい千尋は両手で顔を覆いうつむいた。頭がひどく重く感じる。まだ朝なのに、もう家に帰ってしまいたくなった。
この腹立たしさと納得できない不本意さとひたすらショックな気持ちをどうにかしたい。しなきゃ。そう思ったら、両肘をつき顔を両手で覆ってうつむいた今のポーズ、これがまたよくないと思った。
(まるで泣きそうじゃない)
前にもたれていた体を起こし、両手から顔を離して首を振る。
(……しっかり! 落ち着くのよ…千尋!)
まず今は、神乃木のことは考えないようにして目の前の仕事を終わらせなきゃ。そう割り切って書類を確認する。すぐに神乃木の鮮やかな仕事ぶりが見えてむかついた。彼の仕事に関する書類なのだから、まったく考えないのは無理だと改めて割り切ることにする。再び書類を見直す。惚れ惚れもしたし悔しくもあった。自分が前に進めないうちにも、彼はどんどん進んでいく。その事実にひどく打ちのめされる。
ふと、千尋は自分自身に苦笑した。恋愛抜きでも神乃木に嫉妬している。……いや。
恋愛抜きの方が、ずっと嫉妬しているのかもしれない。
そう思ったら、恋人としての神乃木に申し訳なくなった。ああ思われてもしかたない気もしてきた。
(ああ、でも。)
千尋は大きく首を振る。やっぱり、納得できない。だって。
(悲しかったもの。)
あの言葉を聞いて、呆然としたときに。
何でそんなこと言われるのか分からなくて、もし自分で解釈した意味であってるなら、悲しかった。自分の気持ちが今までちゃんと伝わっていなかったことに、分かってもらえていなかったことに。ものすごく途方にくれてしまった。
もちろん全く伝わってないことはないだろうと思う。でも足りないといわれたようなものだ。
会えなくなることよりも、その方がずっと寂しかった。私にはそんなつもりなかったのに。思い返して、改めて思う。
そう思われたことも、自分がそう思わせていたことも、それをわざわざ言わせてしまったことも、全部が。腹立たしくて、悲しくて悔しくて、唇をかみ締めた。
背もたれに寄りかかって、深呼吸をする。目を閉じるうちに、ふと母のことを連想した。本当ならこういうとき、お母さんにでも相談していたのかしら。そう思って。
(……でも、どうかしら。)
言わないかもしれない。
(想像できないわ、今更。)
そう思って千尋は力なく笑った。
母が一番大変だったあの頃、できるだけ力になりたいと思った。裁判や何やらで母と会える時間は少なかったけど、まだ小さかった真宵の世話をしたり、家のことはなるべくやった。会えたときは一生懸命励ました。自分が本当に相談したかったことよりも、なるべく楽しくなる話をしてきた。母が少しでも笑ってくれるように。できることはなんでもやった。そのつもりだった。
それでも母はいなくなった。
その頃の千尋は、まわりの大人の遠まわしな嫌味が通じるほどには賢くなってしまっていた。母を恋しがって泣く真宵を皆に煙たがれないよう、宥めるのも諌めるのも励ますのも千尋だった。妹相手に弱音やグチをこぼすことはあっても、例えば取り乱すほど嘆く様を見せることなんてできなかったししたくなかった。真宵を、そして自分を守るためにも、早くひとり立ちできるほど大人になってしっかりしなきゃと思った。だからたしかに、恋愛にかまけてる暇はないと思ってきたところはある。それ優先になかなかできない自覚もある。
ああ、でも、それでも。あんな風に思われたなんて。
(……ひどい。ひどいわ。)
神乃木のあの言葉に、「そんなことない」と早く伝えたい気持ちと、そう簡単に許せない気持ちが交錯している。これ以上ないくらいに心がかき乱されている。それもこれも全部。
好きだからなのに。こんなにも、苦しいのに。
(それじゃあ、ダメなのかしら。)
千尋は目を伏せ額に軽く手を当てる。前髪が小さく揺れた。
「……私は、足りないのかしら……」
小さく呟いたら、余計に胸が痛んだ。
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