DL6号事件が時効ギリギリで解決してすぐ、真宵ちゃんは倉院の里に帰って行った。それからは毎日、ぼくは事務所に一人で過ごすようになった。
といっても、まだ数日しか経ってないのだけど。
初日はまだよかった。例えば、風邪かなにかの急病でいきなり仕事に来れなくなってしまうなんてこと、人生にたまにはあることだ。だから、たまたま急に助手が一人休みになった、ただそういう風にも思えたからだ。
だけどそうではないことが、だんだんと実感されてくる。つい数日前までにぎやかだった事務所の中。一人になってしまうと、こんなにも静かになってしまうものなんだ、と愕然とした。
朝、事務所を開ける準備を終えて、でもまだ扉は開けずに、デスクに向かってみる。
だけど何もやる気がしない。
そもそも始業時間までまだあるし、と、昼食用に買っていたものでも軽く食べようかと、机に載せていたコンビニ袋からパンを取り出す。ついクセで買ってしまったトノサマンのパンを見て、自分で買ったくせに顔をしかめてしまう。
“トノサマンスペシャルサンド”。それは、パンと一緒にスペシャルシールも同梱されていて、そのシール欲しさに買い続ける真宵ちゃんのせいで、ぼく自身もたびたび買わされたものだ。でも正直なところ、あまり美味しくない。いかにも子供だましという風の甘いばかりのクリームサンドで、捨てたいほどまずいわけでもないけど、何度も食べ続けたいほどでもなかった。真宵ちゃんがいなくなった今、もう無理に買う必要も食べる必要もないのかと思うとホッとした。これで最後だと思って袋を破り、その中身を口にほおばる。
やっぱり相変わらずの味だ。そう思いながら行儀悪く投げやりに食べていると、デスク周辺にパンくずが広がり、シールの入った内袋が放り出される。デスクの脇、下方にある袖机の方まで飛ばされたそれを、パンをくわえたまま拾って、袋を破る。
妙にキラキラしたトノサマンがポーズを決めているシールが入っていた。トノサマンにそこまで詳しくないぼくでも、この背後の特殊なキラキラ具合でこれがかなりスペシャルなシールであることが推測できてしまう。
「今頃、スペシャルだかが当たってもなあ……」
そうつぶやいたせいで机に無残に落ちたパンと、自分の声が事務所中に妙に響き渡ったことに、尚更虚しい気分になっていく。とりあえず、一応どこかにしまっておくか、と引き出しを開ける。そのついでに周りをよく見回すと、改めて気がついたことがあった。今ぼくがパンくずを散らかしたところ以外は、数日前より確実に片付いていて、しかもきれいだった。
真宵ちゃんがやっていってくれたんだな、と思う。そういえば彼女もこのデスクを大切にしていた。そしてときには、ぼくよりもよっぽどこのデスク周りに詳しかった。以前だって。
「真宵ちゃん、買い出し行くならクリップも頼むよ。普通の小さいのじゃなくてあの、
…なんだっけ、とにかくぶっとい書類挟める方の、でっかいヤツ」
「あれ? それならたしか、袖机の下の段の奥辺りにまだあるんじゃない?」
「え、そうなの? となると、この辺かな…」
「うん、たぶん。……あっ、違う。もしかしたら下から2段目かも!」
「……お! あったあった。ありがとう真宵ちゃん」
「へへっ、どういたしまして!」
そんなことが、何度かあった。まあ、そもそも千尋さんのデスクだったわけだし、千尋さんの私物を片付けたのも彼女なのだから、彼女の方が中身に詳しいのは当然といえば当然なわけだけど。
ときどき、妙に申し訳ないような気持ちになった。本当にぼくがここに座っていていいのかと。
真宵ちゃんは、ぼくがこの事務所に入る前から何度も遊びに来たり、証拠品を預かったり、少しでもできそうなことがあれば、千尋さんを手伝っていたらしい。そういう話を聞いてしまうと、事務所で過ごした時間そのものはぼくの方が多いだろうけど、それでもこの事務所のことをちゃんと知っているのは、より深くここに愛着があるのは、もしかしたら彼女の方なんじゃないかと思う。そして何より、千尋さん自身だ。
そう思うと、彼女たちの大切な場所に、ぼくの名前を掲げてぼくが一番に居座るのはどうかと、思わないこともない。
一度だけそれとなく、真宵ちゃんに尋ねてみたことがある。
だけどあまりにも簡単に一蹴されて、拍子抜けしまった。
「なに言っちゃってんの、なるほどくん。
お姉ちゃんが作った、あたしたち姉妹の大事な場所が、
たとえ名前変わったって、そのまま大事に使い続けられていくんだよ?
お姉ちゃん、喜んでるに決まってるじゃない」
女の人や女の子って、ときどき妙に強いよな、と思う。
悩んでいたことを、あっさり見当違いだと否定されて。その上そんな重大なこと、そんな笑顔で言われてしまったら。
男としては、責任重大だな。そう思って、ぼくはそのとき、思わず苦笑してしまった。
そうだ、だからぼくは、頑張らないといけないのに。
デスクの電話が鳴る。よく見るともう始業時刻になっていた。
“3回以内にとるのよ、なるほどくん。”
そう教わっているはずなのに、いや、いたからか、ちょっと手を伸ばせば取れる距離の電話を、3回たっぷり待ってから出る。
『お世話になっております。ワタクシ週刊早朝の記者、ジンシンジと申しますが、DL6号事件を解決したという、あの成歩堂龍一弁護士はいらっしゃいますか?』
「いらっしゃいません。」
ぜひ取材を…と続く言葉を間違った敬語で遮って、そのまま受話器を元の位置に戻す。するともう一度電話がかかってきた。またたっぷり3回待って受話器を上げる。
『そちら成歩堂法律事務所ですか? 弁護をお願いしたいのですが…』
「申し訳ございません、あいにくですが、ただいま弁護依頼は受け付けておりません」
『は?』
「お困りでしたら、星影法律事務所の番号をお教えしますので、そちらにお願いします」
『はぁ……』
更に電話がなる。今度もたっぷり3回待って、だけどもう面倒になって、今度は留守電のボタンを押す。事務的な自分の声が聞こえる。ああ、今度はまた雑誌の取材依頼みたいだ。それなら断ればいいだけだからまだ気楽だな、と思う。
そんな、自分の今の状況を冷静に見つめ返して、大きなため息をつく。そうして背もたれに大きく体を預ける。
「何やってるんだ、ぼくは……」
その自分の呟きが、やっぱり事務所内に虚しく響いて。ぼくは目を閉じ、更に大きなため息をついた。
真宵ちゃんが里へ帰ってしまってからのここ数日、実はぼくは、まったくまともに仕事をしていない。
長年謎を抱えていた事件を、時効寸前で華々しく解決した弁護士。と広まったおかげで弁護の依頼だけでなく取材の依頼とかまで来ているけれど、なんだか何もする気になれなかった。大きな事件を解決した後の虚脱感、といえなくもないけれど。それだけじゃなく、今までの疲れがどっときてしまったような気がする。
今までの、……そう、……千尋さんが、亡くなってから、今までの。
一人で事務所にいることが、こんなに不自然なことだなんて、今まで気づかなかった。気づかないでいられたのに。
千尋さんの事件のとき、もし真宵ちゃんが千尋さんに呼び出されていなかったら、そして彼女が被告になることがなければ、彼女が助手になることもなかったかもしれない。
まあ、それだとそもそも、今頃はぼくが刑務所の中にいたかもしれないけれど。
だけどもし一人でも無事に事件を解決できたとして、それでも。
最初からぼく一人だったら、今、こうしていられただろうか。
真宵ちゃん、そして彼女の呼び出す千尋さんの後押しがなくして“成歩堂法律事務所”なんて。いきなり自分の事務所だなんてそんなだいそれたこと、やっていこうと、そんな風に思えただろうか。
そんなわけない、とぼくは首を振る。
真宵ちゃんがいたおかげで、もう一度千尋さんに会うことができた。
その千尋さんの調べた事実のおかげで、ぼくらは無事無罪になれた。
真宵ちゃんがいたからこそ、“成歩堂法律事務所”がはじめられた。
千尋さんがいたからこそ、解決できたこともたくさんあった。
真宵ちゃんがいたからこそ、DL6号事件の法廷も最後まで続けられた。
彼女がいたからこそ、千尋さんの不在を、その痛みと悲しみを、和らげることができた。
それは彼女にとってもそうだったと思う。ぼくとこの事務所があったからこそ、だったんじゃないかって。きっとお互い、お互いの存在に救われていたはずだ。
それでも、彼女はひとりで前へ進むために、帰っていってしまった。
だからぼくは、それを応援してあげなきゃいけないのに。そのためにも、ぼくは頑張らないといけないのに。
そう思っているはずの頭は、そんな風にうまく動かせない。真宵ちゃんがいた頃の、楽しかったくだらない話ばかりが、脳裏をよぎっていく。
夕暮れ時、仕事ももう少しで一段落というところで、たわいもない世間話がはじまった。まぶしい夕日にぼくは目を細めながら、トノサマンについて熱く語り続けていた真宵ちゃんに、たまにはせめて話を変えてもらおうかと問いかけてみる。
「真宵ちゃんがトノサマン好きなのはよくわかったけど、他には?
トノサマンにはまる前とか、どうしてたわけ?」
「トノサマンの前? そうなると……《忍者ルンジャ》かな。
“ルンバとジャズの魅力に揺れ動く一匹狼の忍!”
……だったんだけど……まあ、つまんなくはなかったよ?
すぐ踊って歌って。それはそれでノリよくて楽しかったんだけど、
そこまであたしの血肉は沸き踊らなかったというか……
だから、その後見たトノサマンが、ほんと衝撃的だったんだよ!
熱く戦うトノサマンがもう、感動でさ…!」
「……つまり、結局トノサマンに繋がるんだな」
あきれるぼくに、真宵ちゃんは不思議そうな顔になる。
「あれ、違った? そうだねえ……他となると…
あとは《おまじない》かな? クラス中ではやってたよ」
「へえ。一気に女の子っぽくなったね」
「そりゃ、トーゼン! 女の子だからね」
自慢げにいうことじゃないし、と心でツッコミながら、ぼくは更に尋ねる。
「真宵ちゃんもやってたの? その、《おまじない》」
「うーん、あんまりココロひかれるのは少なかったけど、
一つだけお気に入りのがあって、何度かやったことあるよ」
「へえ……」
ぼくからしたら、おまじないなんて、昔同級生に見せてもらった本を読んだときから『意味不明すぎる』『あり得ない』……というイメージで、大嘘もいいところだと思っていた。そんなインチキにしか思えないものなのに、女の子は好きだねー、と、正直いってちょっとバカにしたような気持ちになる。
そんなぼくをよそに、真宵ちゃんは大事な思い出を話すように、柔らかい表情で説明してくれた。
「《大好きな人への願いが叶うおまじない》なんだけどね。
その人の身の回りのものにお願い事を書いて、
それが本人に気付かれないまま、そして消えないまま
ずっと使い続けてもらえていれば、願いがかなうんだって。
その期間が長ければ長いほどいいの。もしくは自然に消える分には問題なし。
友達はね、消ゴムケースに隠れた部分に見事書いてたよ。
……まあ、すぐ本人にバレちゃってたけど。
あとは…机の裏とかもはやったね! 放課後にこう、コッソリと…」
「……それ、目撃されたらかなり不審だよね」
思いっきり『やっぱりあり得ない。』という顔をして返答したぼくに、真宵ちゃん自身もあきれたような顔で返す。
「わかってないなあ、なるほどくん。
《おまじない》ってのはね、えてしてそういうものだよ」
「わかった風に言われたな。……ちなみに、真宵ちゃんって信じてるの?
そういう、《おまじない》とか、本物だって」
「あんまり」
「なんだよ。じゃあなんで…」
「でもね。たしかにクラスの皆ほど夢中にはなれなかったから、
あたしはそんなにやらなかったけど……。
……だけど、ちょっとは信じてるよ」
「そうなんだ」
「うん」
そう返事した真宵ちゃんの顔がかげる。ちょうど夕暮れ時の世間話だったから、窓から夕日が差し込んでまぶしかったり、それがときどきビルの陰になってさえぎられたり。そんな明暗がさっきから繰り返されていた。
そのせいで真宵ちゃんのいる場所は今は薄暗く、だからかたった数秒だったはずの彼女の沈黙が、妙に重く感じられた。彼女が再び口を開く。
「…《霊媒》だって《まじない》みたいなもんでしょ」
「……『みたい』、どころじゃないと思うよ」
重く感じた沈黙の後にしては、当然のように思えた内容に、ぼくは少し安心して軽くつっこんでみる。彼女の負う《霊媒》への重責が、ぼくにはまるでわからなかったから。
そんなぼくの言葉に彼女は明るく、でもいつもより静かな声で、うなづく。
「うん。そうでしょ。……だから、
ああいう《おまじない》にも、ちょっとは効果があるって思ってるよ。
少なくとも、そう願うことが、叶うと信じて願うことが、
なにかの力を与えてくれるんじゃないかなって。
……あたしは、そう信じてる。」
そう言った真宵ちゃんの笑顔を、それまでビルの陰になっていた夕日がひときわまぶしく照らし出す。大事な思いをこめて語られた言葉も、夕日を浴びたその笑顔も、いつもより少し大人びて見えて。……正直、ちょっと綺麗だった。
だからぼくは、おまじないを単純にバカにしていた気持ちを、申し訳なく思ったりした。
たしかに、強い願いや祈りがあることで力になる、そんなことはいくらでもあるだろうから。ぼくだって15年間、願い続けたものがあった。そういう思いの力になるなら、おまじないのすべてを否定するのも浅はかだったかな、なんて、そう素直に思ったんだ。
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