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3よりも前、長い眠りから目覚めて千尋さんの死を知った彼が
ゴドー検事になる前、くらいの時間軸です。基本的に暗いです。



「ここから……あと10分ほどぢゃ、神乃木クン。
 千尋クンのところまでは……更にもう少しかかるがのお」

 バスを降りてすぐ、そんな説明が聞こえた。声の主である丸くて黒い男の後を、重い足取りで付いていく。まわりを見渡すと緑溢れる景色がまぶしく見え、目を覆いたくなった。
 いや、とっくに覆われているか。自分への皮肉に乾いた笑いが漏れる。
 目の前を歩く巨体に視線を戻すと、ハンカチを顔にあて汗を拭いていた。都心をはずれた場所のせいか、それとも元々の気候なのか、暑さの残るこの時期にしては今日は涼しい風の吹く日だった。だが、いくら涼しいとはいえ、その真っ黒い服装では仕方のないことだとも思う。そしてそれは、自分も同じだった。ゆっくりと歩みを進めながら、己の格好を確認するために頭を軽く下げた。すると大きすぎる眼鏡の重量感と振動が、鼻の上の位置から耳まで一斉に伝わった。視界に映る黒いスーツの重苦しさと相まって、耐え切れず舌打ちをする。

 耐えてみせろ、神乃木荘龍。
 そう呟き続けてここまで来たが、もう限界だった。そもそも、目的の場所へ着きたいとは思っていなかったのだ。
 来たくはなかった。本当は、まだ見たくもない。けして、会えやしないのに。
 はっきりそう気づき、無理矢理に気持ちを押し殺すことでなんとか動かしていた足を止めた。

「…………すまねえ、先生。」
 そう呟いて、踵を返した。
「なにを言う。他ならぬ可愛い弟子のためぢゃ。謝ることはないぞ。
 それよりも、チミに“先生”なぞと呼ばれると……めずらしくて気味が悪いのお」
 そんな軽口に笑う余裕すらなく、ゆっくり歩き出した。
「……神乃木クン? ……待ちたまえ!」
 背中に自分の名前が呼びかけられる。それを聞かずに歩き続けた。
「逃げるのか!? 神乃木クン」
 しだいに大きくなる声に、耳を貸さぬまま足を早める。
 夏の暑さが残る緑豊かな景色の中、その穏やかな空気に見合わない声は続く。やけに響く。
「千尋クンは、逃げたりなんぞせんかったぞ! チミを失っても、精一杯頑張って……」
 ああ。きっとそうなんだろう。……だが俺は。
「……4年も。4年も、ずっと待っとったんぢゃ!」
 だが、俺はそれを知らねえ。

「それにひきかえ、今のチミはなんぢゃ!? 神乃木クン!」
 めったに張り上げないだろう大声でじいさんは何度も呼びかける。かまわず歩き続けるうちにその声は次第に遠ざかっていく。黒いスーツに身を包み、目的の場所と逆方向に向かっている俺を、彼は追い掛けずに立ち止まっているのだろう。そしてそれは、俺が自らの意思で戻ることを信じて、待っているからなのだろう。
 だが、その期待に応える気は毛頭なかった。

 わざわざここまでやってきておいて、辿り着く直前になって引き返しちまう。今の自分がどれだけみっともないか、自覚してないわけじゃねえ。
 それでも、やはり向かう気になぞなれなかった。
 事実を聞かされても、じいさんが丹念にまとめてくれた記録を見ても、すっかり様変わりした事務所内の席を見てすら、俺は受け入れられなかったのだ。

 5年もの月日の喪失を。
 彼女の死を。

 墓石ひとつ見たところで、それが今更変わるとは思えなかった。いや、変えたくもなかった。
 認めたくなどない。許せるはずなどない。

 バス停に向かう気にもなれず、当てもなく畑とススキ野原に挟まれた小高い道をひたすら歩く。この自然ばかりの陰気な里から早く離れてしまいたかったが、見知らぬ誰にも顔を合わせたくなかった。顔に圧し掛かる派手すぎる眼鏡。無様な表情を見せずに済むのはありがたいが、異質なものを見る目を向けられることも今は耐えがたかった。

 つい2日前渡された、その仮面とも言える試作品の付け心地はまさに最悪だった。
 鼻の上から頬骨、耳にかけての圧迫感、顔の上部全体にこもる空気、生温い熱と、それを冷やすための装置から小さく響く低音。そのどれもが不愉快だったが、一番鬱陶しいのはこの目に映る視界だ。
 色がまともでないことはまだいい。しかし体への負担が大きすぎる。複数に分かれた視界から集まってくる情報に混乱するのか、時折強く頭が痛む。ひどければ嘔吐感さえ催す視界に、気を抜くと体がぐらつく。そして何より単純に、目への負担も著しい。
 こいつを平気で長時間つけていられる程に慣れるのには、どれだけの忍耐と時間が必要だろうか。今は耐えるしかないのだということがわかっていても、早くもう少しまともに改良されることを願わずにはいられない。

 いつの間にかそんなことばかり考えている自分に気づき、溜息混じりに嘲笑う。
 初めてこの眼鏡をかけたときのことを、目に映った世界への感動を、すっかり忘れてやがる。ただ目の前の物が見える、それだけのことがどれほど有り難いことだったか、痛切に感じていたのもつい最近だったはずだってのに。人の欲求とは尽きないものだ。そう思い再び深く溜息をついた。

 思考を巡らせながら漫然と動かし続けた足を少し緩め、速度を落とす。このまま突き進んでも帰れないことは知っていた。
 虫の声が聞こえる。やかましい程に。仮面からの熱と低音も変わらず鬱陶しい。残暑厳しいこの頃の時期にしては涼しく過ごしやすい今日の陽気、それにさえも舌打ちした。時折そよぐ心地よいはずの風も、この黒く重々しい姿の息苦しさまで飛ばしてくれはしない。
 全てのことを忌々しく恨み、苛立つ気持ちがなお忌々しかった。考えれば考えるほど攻撃的になっていく思考の勢いのまま、全ての元凶を象徴するかのように思えた仮面を掴み取り、地面に投げつける。
 失われる視界。
 同時に仮面の転がっていく音が、更に下方へ遠ざかった。その距離からして、草っぱらの場所まで落ちていっただろうことに舌打ちする。苛立ちのまま地面を強く踏みつけると、見えない世界の中、自身がぐらついた。
 しまった、そう思ったときには、すでに俺の体は道から転がり落ちていた。


 風が草木をなでる音がする。虫の声も相変わらずだった。そんな中、何故か機械特有の、妙な高音までもが聞こえてくる気がした。草っぱらの地面に仰向けに倒れこんでいるだろう体は、あちこちが痛むものの頭もぶつけていないようで、どうやら無事らしかった。その事実を確認して、安堵というよりは別の意味合いのため息をつく。なんて滑稽な姿だ。
 目を開けても閉じても大差のない視界に途方に暮れ、自業自得だと、仮面に八つ当たりをした自分を嘲笑う。もうこのままここで眼を閉じて眠り込み、ひからびるまで倒れていたい気持ちになっっていた。
 だが、そう時間も経たないうちに、、風になびかれるたびに顔にかかる草のくすぐったさや、ときどき顔や手をかすめる虫か何かの感触が気に障り、感傷的な思考が途切れた。現実へ意識を戻させられた頭は仕方なしに、あの仮面を渡されたときに受けた説明を思い返す。
 突発的に外れたりした場合に見つけられるように、ちゃんとスイッチを切らずに長期間はずした場合は、小さい警告音が鳴るはずだった。
 もとから見えていない眼を閉じたまま、耳を澄ます。虫の声にかき消されながらも、それとはまったく異質の音は、さほど苦労せずに拾うことができた。そこまで遠くない…それどころか、どうも間近のようだった。そういえば最初から謎の機械音が聞こえていた。無駄に思えるほどの運の良さに、力なく苦笑する。
 体を起こし、今度は目指す方向へ傾け、右手を地面に伸ばしていく。程なくして手に草や岩と違った感触があり、目的の形状の物体だとわかった。持ち上げて、おそらく付いてるだろう土や汚れを手探りで振り払う。警告音の止め方が分からず、スイッチを入れ直してから顔に当てる。薄目を開けていた状態の暗い視界が、一気に明るく形作られていき、自然と安堵のため息が出た。
 想像できていた景色が広がる。
 風になびくススキ野原は土手の上から見たときよりも近く、美しく見えた。

“自然しかないところなんですけどね”

 そう言った彼女のことを思い出す。

“でも、すごく綺麗ですよ。
 ……まあ、綺麗じゃないところも、嫌なところも、嫌になることもいっぱいありますけど”

 千尋から聞いた彼女自身の話は、たいていは彼女の妹との思い出話で、たわいのないものだった。だから彼女の生い立ちも、複雑な家の事情も、なにやら込み入った事情があるだろうことは察しがついても、詳しくは知らずにいた。いつか聞くつもりでいた。話してくれる日が来るだろうことを待っていた。
 だからその日の、自分の故郷について感傷的に語る千尋の言葉は、少しめずらしかった。たしか妹さんから、夏休みにも関わらずセッティングされてしまった学校の三者面談に来て欲しいとせがまれていた時期だった。そのことで、いろいろな思い出や感情が沸きあがっていたのかもしれない。

“やけになっているときに、綺麗過ぎる夕日を見ちゃったときとか、
 なによもう! って思いますけど、それでもなんか……感動しちゃったというか。
 どうしようもなく悲しかったことも、なんとか耐えられそうな気持ちになったりしましたし”

 妹さんと二人で、夕日に向かって「バカヤロー」とでも叫ぶのかい?
 そんな怒られそうな軽口をたたくと、なんで知ってるんですか? と返ってきたもんだから、危うくコーヒーを噴出しそうになったもんだ。愛らしい迷えるコネコちゃんたちの情景が頭に浮かんだ。

“そうやって笑いますけどね! ほんとーーーに綺麗なんですからね!?”

 口を尖らせるコネコちゃんが可愛くて、自然と暖かい気持ちになっていた。だから、尚更。

“……いつか見に来て欲しいです。神乃木さんにも”

 そう照れくさそうにいった彼女の笑顔に、息を呑んだ。
 文句を言いながらも大事そうな、彼女にとっての故郷。そこに住む大事な大事な妹の話。その流れで自然と自分の名前が出てきたことに、妙に胸が詰まった。……思い返せば、情けねえほどに。
 そいつはプロポーズかい? コネコちゃん。そんな軽口すらたたけなかったほど、彼女の言葉を笑顔をその想いを、大事にしたいとひたすら思った。言葉ではたとえきれない、静かで深い感動を悟られすぎないよう、その嬉しいピンチにただ微笑んだ。
 ……楽しみにしてるぜ。
 ごく素直な気持ちで返した言葉に、千尋は幸せそうな顔で微笑んだ後、少し慌てて顔を逸らし、頬を赤らめた。さっきまでの自分と同じことを考えて照れてしまったようにしか見えず、俺の顔はますますほころんだ。まるでプロポーズみたいだと思ったろう? コネコちゃん。結局そう口が滑って、可愛く怒られちまって。
 コネコちゃんの故郷に招待される、早くそんな日が来ればいいと思った。
 いや、そんな日はもうすぐ来ると思っていた。自分の手で、引き寄せられると思っていた。

 そんな都合のいい思い込みで、急ぎすぎてしまった。

 夕日を自慢する彼女に、夏休みだってのに先生に呼び出されちまった妹さんのためにも、数日くらい実家に帰ってやったらいいと勧めた。そうして結果的に、実家に帰っているコネコちゃんを出し抜いた。全ては彼女のためのつもりだった。
 あとは“美柳ちなみ”、俺たち二人で追っていたあの女を引っ張り出せばよかった。そのための鍵となり得る情報も見つかっていた。だから千尋が帰ってくる頃には、審議再開に向けての準備を整えているつもりですらいた。それだっていうのに――

 体が震えた。
 あの日のコーヒーの味を思い出し、全身が凍りつく。
 思わず伏せていた目に更に力を込める。胸元を押さえ無理やりに大きく呼吸を繰り返し、平静を取り戻そうとしている自分の情けなさに尚のことうなだれる。

 長い眠りから覚めた直後に比べれば、今はだいぶ自由に体を動かせるようになった。
 それでも、昔より脆くなった体に嫌気がさす。突然思うように動かなくなった、思うほど回復しなくなった体には心底絶望させられた。
 その上で知らされた千尋の死。
 認められなかった。今だって信じられやしない。だからこそ、いまだに涙もでてこねえ。
 俺が目を覚ましたことをあり得ない奇跡だと言うが、千尋が死んでいるだなんて、そっちのほうがよっぽどあり得ない事実だ。何度もそう思った。
 ただそんな事実を冗談で、あのじいさんが言い続ける訳がないことも知っていた。わかっているのに尚認められなかった。

 延々巡り続ける暗い思考を振り切るように首を振る。深いため息の後、閉じていた目を開いた。再び目の前に穏やかな景色が広がる。まぶしい光に目を凝らす。少し視線をかえると、かなり落ちてきている太陽に気づく。

 ふと、千尋の話を思い出す。
 夕日を見て感動したこと、悲しみを紛らわせられたこと。照れくさそうに、そう話してくれたこと。
 もともと早い時間に出てきたわけではなかった。いつの間にか日はだいぶ傾いていた。その高さから、もう空には夕焼け色が差していてもおかしくないはずだ。
 だが俺の目には、その色はよくわからなかった。
 千尋がいとおしく思った光景を、見ることすらろくにできない。その事実が悔しくて歯を食いしばる。
 それでも。

 いつの間にか、その光景をずっと見ていた。徐々に沈んでいく太陽。地平線にそった山波以外にそれをさえぎるものはなく、太陽の端からは光の帯が伸びているようで、その幅もしだいに変わっていく。
 草を撫でる風の音、合わせてゆらめくススキ野原。ゆれるごとに、日が沈むごとに跳ね返る光がその形を変えていく。鳴り響く虫の音、うっとおしいだけだった音色がやけに切なげに響いて耳に届く。
 瞬きも息も、するのを忘れそうなほど、その美しい光景に心を掴まれた。
 今なら、何もかもを。あのとき彼女が語ったように、許せそうな気がする。全ての事実を認められそうな気がする。
 そんな気分に包まれ、涙がこみあげてくる。小さく息を吐く。彼女を想う。

 新人らしい緊張した面持ち、新人らしからぬふてぶてしい笑顔。
 涙をこらえる姿も、こらえきれずにこぼれ落ちた涙も、真面目な態度も無邪気な笑顔も。
 背伸びしすぎて落ち込む様、きっちり身に付いてきた綺麗な立ち振る舞い。
 優しくしっかり話す口調も、それでいて意外に可愛らしい声も。
 彼女の全てがいとしかった。いとしかった、彼女の全てが。

 もうない。

 その瞬間。やっぱり無理だと全てを否定する。
 目の前の美しい景色から逃れるようにうなだれ仮面に手をあてる。ひどい動悸に息が苦しく、自らの胸元を鷲掴み粗く息を吐く。

 こんなんじゃ足りねえ。今の俺には。
 千尋、アンタが、アンタさえいれば。千尋、お前だけが。
 埋められるのは、求めているのは、まったくそれだけなのに。
 それだけが、それだけは……けして叶わない。

 無意識で涙をこらえるように、ぎゅっと目に力をこめる。
 そうして閉じている目には意味のない仮面をはずす。目元を撫でる涼しい空気に、少し癒される想いがして小さくため息をつく。上半身だけ起こしていた体を支える気力もなくなり、力なく地面に倒れこむ。
 もう何も考えたくなかった。
 そのはずなのに一つのことが、千尋のことばかりが頭に浮かび離れずにいた。

 しかたなしに、その一つのことのために、目的を考えはじめる。
 本当はとうに目星は付いていた。
 千尋から聞いていた妹の存在、そして目覚めてから知った、じいさんの資料にあった……

「……どうして、あの方が…」
 思考を巡らすうち、土手の上から声が聞こえてきた。
「……あの方を失って、私たちはいったいどうすれば…」
 どうやら、この辺りにゆかりのある女たちが、最初に俺が歩いていた道を通っているようだった。

「舞子様を待って、真宵様を立てていくしかないわよ。大おばさまの意向も始めからそうだったわ」
「……でも真宵様は、あまりにも何も教えられてないわ」
「それはそうなってしかたない環境ではあったから…」
「だからこそ真宵様じゃ不安なのよ」
「そんなこと言って大丈夫かしら。大おばさまにしかられるわよ」
「……キミ子様と春美様、どうなるのかしら……私はいったいどうすれば…」
「……なんにせよ、あのイライラしたお医者様の事件は解決した。よかったわ」
「よくないわよ! キミ子様がいなくなって、真宵様までまた里にいないこと増えて。
 大おばさまたちも本当は困っているわ。
 結局春美様より修行も何もかも放り出して……、本当に大丈夫かしら」
「そういえば、なんて言ったかしら。その、真宵様が連れてきたあの男」
「なんでしたっけ、なんだか特徴的な…」
「千尋様の弟子だったとか…」
 その響きに顔をしかめる。

「……るほどう りゅういち……」

 やっぱり、そうか。

 残されたのはたった二つ。彼女に関わる、二人。

 寝転んだ体を起こし仮面をかける。沈みかけた日はまだ辺りをてらしていた。立ち上がり、土手へ這上がるための場所を探し、手を伸ばす。

 どれだけ無様でも。
 少しでも。かけらでも、間違ってたっていい。

 もといた土手の上の道までよじ戻り、振り返る。日はもう山の向こうに見えなくなっていた。もうすぐあたりも暗くなっていくのだろう。ゆっくりと、帰るための道を歩き出す。

 千尋、お前の残したものを。かき集めて、拾い上げて。
 この悲しみを、憎しみを、行き場のない感情を、いつか。
 全て認められるときがくるのなら。

「……会いに行くぜ、千尋。」
 
 喉の奥で低く、ふてぶてしく笑った。



9/5にあわせて更新予定だったものです。(しかも去年の…)
3倍くらいかっこいい文体にしたかったのですが、これが限界でした。
いまいちうまくまとめられなくてすみません。
でもこういうのに似た話ばかりもいっぱい妄想しちゃいます。
ゴド→チヒとゴドーVS成歩堂が大好きです。

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up<2009/10/15>
(書き始めは2008/09〜)