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Kaziyanさま






「眠そうだな、コネコちゃん」
 机の上に置かれたカップ。その軽い振動のおかげで、一瞬にして我に返る。
 さっきまでぼんやりと耳に入っていただけの周囲の会話がはっきりと聞こえるようになり、妙な焦りを感じてしまった。とにかく、本当に眠くて眠くて眠くて…実際に意識が飛んでいたのは10数秒だとは思うけど。
 それでも精一杯の虚勢を張り、千尋は椅子を回転させて背後へと向き直った。
「わ、私…眠くなんか……」
「コネコちゃんの舟、景気良く漕がれてたぜ。まぁ、何とか持ちなおそうと、必死そうだったけどな」
 ううう、全部見られてる。
 神乃木さんにしては珍しくさわやかな笑顔を浮かべているけれど、今はそれがひたすら痛い。
 多分、事務所にいる他の人には見られなかったとは思うけど、それでも。
(よりによってこの人に目撃されるなんて…何やってるの、千尋!)
 がっくりとうなだれている自分に構わずに傍らにあった空き椅子を引きずり、そのままどっかりと腰掛ける神乃木さん。椅子の背もたれを前に持ってきて、足をぶらんと投げ出して。行儀の悪い格好でも、この人には妙にしっくり来るから不思議だった。
 腕を組んだまま、先ほど机に置いたコーヒーを指差す。
「神乃木荘龍作・コネコちゃんブレンド。良かったら、飲んでみないかい?」
「は、はい!」

 とは言ったものの…正直、コーヒーはあまり得意じゃなかったりする。
 どうしてもその苦さになじめない。ミルクで薄めれば問題ないけれど、目の前にあるようなブラックは、さすがにしんどいものがあった。
 でも、神乃木さんがせっかく作ってくれたんだし…どうしよう。
 カップとにらめっこをする事、数秒。ようやく意を決し、口元まで持ってきた所で、
「おっと、忘れ物だ」
 完全に気勢を削がれ、大量の湯気を吸い込んでしまった。むせ返るのはどうにかして我慢できたけれど、今ので自分の【コーヒー苦手】バロメーターは確実に上昇した気がする。
 軽い非難の眼差しを込めながら顔を上げ、そして。
「なんです、それ」
「だから、忘れ物さ…俺とした事が、うっかりしてたな」
 ドラえもんのひみつアイテムよろしく、神乃木さんの手に輝いていたのは、カップより幾分か小さめの取っ手付きクリーマー。
(どこに持ってたんですか、それ)
 これにつっこむのはナンセンスかもしれない。
 改めて目の前に差し出された、クリーマー内のホットミルクが柔らかい湯気を立てている。
 ミルクまで用意してくれた神乃木さんのマメさ(というかコーヒーへのこだわり)に感謝し、ブラックコーヒーを飲まずに済みそうな事に安堵し…そして最後に生じたのは迷いだった。
 カップの中身とそれを見比べて首を傾げながら考え込む事、10秒。
「せっかくですけど…私、このままで行ってみます」
 コーヒー好きの人は大抵ブラックで飲んでいるし、きっと、慣れてしまえばその方が美味しいのだろう。
 自分の返答の所為でホットミルクが無駄になってしまったにも関わらず、神乃木さんは面白そうに自分を見ているだけ。その反応を、とりあえず了解を得たのだと勝手に解釈させてもらう事にする。
 再度覚悟を決めて、カップの中身を一口…、
「背伸びしているコネコちゃんを見るのは、本当に微笑ましいんだけどな」
 …含む直前に、またしても。(絶対タイミング狙ってるわ、この人…)
「しっかり足場を確保しておかないと、溺れちまうぜ…コーヒーの海に」
 言うが早いか、だばだばと。
 手元にあるカップの闇が薄れてゆき、あっという間に白く染まったコーヒー。湯気の向こうで神乃木さんがクリーマーを置き、カップを持ち上げる仕草をしてニヤリと笑っている。
 飲んでみな、って事かしら…今度こそ三度目の正直、のはず。
 軽くカップを傾けた後、千尋の瞳はぱっちりと見開かれた。
「…美味しい」
「言っただろ?コネコちゃんブレンドだって。ミルクを入れなきゃ、味が締まらねぇんだよ…こいつは」
「でもセンパイの分のミルク、もう残ってませんよ?」
 クリーマーの中身は、もう空になっている。
「クッ…!不味かろうが濃かろうが酸っぱかろうが間が抜けていようが…そこに闇がある限り、俺はそいつと向き合い続けるぜ、いつまでも」
 相変わらず微妙に言ってる内容が意味不明だけど、ひとまずそれは置いといて。

 2つのカップに、2種類のコーヒー。
 それがそのまま、神乃木さんと自分との差のように思えてしまう。もちろん今は追い越せそうなんて思わないけれど…せめて背中が見えるまでは、近付きたいのに。
「やっぱり私、まだミルクとか砂糖をを入れないと、まともに飲めないですね…」
「コーヒー飲料じゃ、駄目なのかい?」
「え?」
「美味いコーヒーは一人でも飲めるが、楽しいコーヒータイムは二人いなけりゃ成り立たねぇ。こうやってカツンとできるのも、カップが二つあってこそ、なんだぜ?」
 カップ同士がぶつかる音。互いに中身がたくさん残っていたから、決して良い響きにはならなかったけれど。
「コーヒーで、乾杯もないでしょうに」
 苦笑いしながらも、今度は自分から同じようにカップを当ててみる。さっきと変わらない鈍い音と、神乃木さんのちょっと驚いた表情が印象的だった。
 【ミルクが入っていないから締まりのない味のコーヒー】を満足そうに口にしているその姿を、自分のカップの影からこっそり覗きながら、
「やっぱり、羨ましいなぁ…」
 そっと、呟いた。
「何がだい?」
「私も神乃木さんみたく、シャキーンとブラックを飲んでみたいです」
 一瞬だけ呆気に取られたように黙り込み、直後に頭を抱えて笑い出されてしまった。
 何か変な言い方をしたのかと内心で狼狽していると、唐突に真剣な眼差しになった神乃木さんが、静かに口を開いた。

『……
(あれ、よく聞こえないですよ、センパイ)




 ………コーヒー…買って……けど…」
(神乃木さん?)

「…所長〜、起きてます?」
 かけられた声で我に返ったのはいいものの、置かれた状況を把握するのに、それから数秒ほどを必要としてしまった。
 パソコンにはスクリーンセーバーの映像が流れ、机のあちこちに点在する書類。そして観葉植物のチャーリー君が陽光を全身で浴び、柔らかい光を部屋中に照らしていた。
 珍しく依頼の無い晴天の一日。資料の整理をしようとパソコンの電源を入れ、そのままうとうとしてしまったらしい。千尋が背もたれに体重をかけると、反応するように椅子も軽い悲鳴を上げる。その音につられて何故か、笑みがこみ上げてきた。
 久しぶりに見た、あの人の夢。
 夢の中でしか再会できない人だけど、相変わらずちょっとだけキザでコーヒー好きで…変わらないでいてくれるのは、寂しいけれど嬉しくもある。
「所長?」
 そして、こんな夢を見た原因はすぐにわかった。
 台所からマグカップを持った助手…なるほどくんが、微妙に危なっかしげな足取りで持ってきてくれた飲み物の薫りが、ずっと部屋中に充満していたから。
「コーヒー?」
「ええ、そうです」
「確か…うちの事務所には置いてなかったわよね?」
「そうなんですけど。さっき買い物に行ったら、スーパーですっごく大安売りしてて。やっぱり依頼人が来た時の為に、コーヒーくらいは無いと、って思って…」
 そう、ここまで買い物袋が似合うスーツ姿の男の子は他にいない、って位にしっくり来るものだから、ついつい何度もなるほどくんに買い物を頼んでしまう。
「…もしかして所長、コーヒー嫌いでしたか?飲んでるの見た事ありませんけど」
 だけど、ごくたまに見せる視点の鋭さには、内心で舌を巻いていた。
「そんな事ないわよ。頂いてもいい?」
「はいっ!」
 気分が曇ったり晴れたりと大忙しのなるほどくんからカップを受け取り、その中身へ目を向ける千尋。手元で広がる、一面の闇。
「あ、今ミルク持ってきますね」
「………いらないわ、私は」

 ドキドキする。
 あの事件が起きて以来、半ば意識的に飲まないようにしてきたけれど。
 辛い記憶を思い出したくなかったし、何より自分だけがコーヒーを飲める事への後ろめたさがあったから。なるほどくんが台所へ去ってからも、しばらくカップとお見合いする形になっていた。
(でも、せっかく淹れてくれたのに飲まないっていうのも、悪いし…ね)
 もしかしたら、良い機会なのかもしれない。
 精一杯の力を込めながらわずかにカップを傾け、ひと口飲み…千尋の目は思わず瞬きを繰り返していた。
 昔感じた、あの苦さがどこにもない。ふんわりとした深味が下に絡みつき、意外なほどにさっぱりと喉の奥へ吸い込まれる。
 遠い記憶の中、神乃木さんがニヤリと笑っていた。
『……焦らなくても、ある日突然美味いと思える日が来る。そういうもんさ、ブラックってのは』
 ―――約4年ぶりのコーヒーは、優しく千尋を迎えてくれた。
(ふふ、神乃木さん。ついに私も飲めるようになりましたよ)
「美味しい…」
 独り言のつもりだったけれども。
「良かったぁ、ぼくも飲み慣れてなくて、分量が適当だったから不安だったんですよ」
 ちょっと視線を動かすと、台所から自分のコーヒーを取って来たなるほどくんが、嬉しそうに立っている。
「なるほどくんこそ、コーヒーを飲んだ所を見た事ないけど、苦手なの?」
「問題ないですよ。ちょっとした成分調整が必要ですけど…」
 言いながらカップを机に置いたけれども…どうもその時の音が軽い気がする。不思議に思ってこっそり覗き込み、唖然。
 カップの中身にコーヒーらしきものは、底が見えそうな程度しか入っていなかったから。
 そこへ一気に牛乳を…と思ったら、パックにはしっかりと【調整豆乳】という文字が記載されていた。とにかくそれをもう、どばどばと注いでいて…これはもう、コーヒー飲料を通り越して、完全に乳飲料って言うべきだと、思う。
「やっぱり、美味しいですねコーヒーは」
(全国のコーヒー愛好家に殴られそうな台詞ね)
 とっさに浮かんだ言葉をかろうじて呑み込めたのは、長年(?)の弁護士生活の賜物かもしれなかった。
「それ、豆乳だけにしても変わらないんじゃない?」
「いえいえ、ほんのりコーヒーテイストがして、結構いけるんですよ」
「…コーヒーだけだと、駄目なのね」
「やっぱり、バレちゃいますか?」
「あたりまえです」
 そうですか、と溜息をつきながら本気でしょげ返っているなるほどくんの様子が、見ていて…微笑ましい。
「確かにぼく、あんまりコーヒー好きじゃないんです。少しずつ慣れなきゃいけないと思って、頑張ってはいるんですけど…」
「あら…まぁ」
 どこかで重なる光景は優しく蘇り、新しい記憶が追加されて、大切な思い出になる。
 目をつぶってまた開ければ、別の人物が目の前に立っていそうな錯覚に襲われたが、幸いな事に何度瞬きしても、とんがり頭の青年が、まっすぐにこちらを見ていてくれた。
 …それでいいんですよね、神乃木センパイ?

 カップのコーヒーをもう一口飲んで、千尋は静かに口を開いた。


END




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