あなたの珈琲

秋葉スピカさま






「またそんな甘ったるいものを飲んでいるのかい、コネコちゃん」

 確かそれは、七月の割に風の涼しい日だった、と記憶している。
 私は最寄りのコーヒーショップで買ってきたキャラメルマキアートを片手に、開け放った窓の正面でこちらを見ていた神乃木さんを振り返った。昼下がりの風を浴びて、神乃木さんの柔らかい髪の毛はサラサラとなびいていた。彼の渋い笑みを見て私はむっと口を尖らせた。
「別にいいじゃないですか、人には好みってものがあるんですから」
「言っておくが、そんなものコーヒーとは呼ばねえ。そんなのばかり飲んでたら、舌がゴムになっちまう」
 そういうと、神乃木さんは自分のカップに口を付けた。本棚から必要なファイルを引っ張り出すと、私はぶっきらぼうに椅子を引っ張り、自分の席につく。
「コーヒーショップで売ってるんですからコーヒーはコーヒーです」
「クッ…わかってねえな、コネコちゃん。闇のように黒く、地獄のように苦くてこそコーヒー、だぜ」
 それはあなたの勝手なコーヒー美学でしょ、と思いつつもきりがないので私は黙っていた。
 むっつりしている私を見て、神乃木さんはゆったりとした動作から窓枠から離れ、こちらの方へ歩いてきた。コツ、コツと一定のテンポで床を鳴らす靴音がなんとなくもどかしかった。
 ギシ、と音を立てて神乃木さんが私のデスクに手を休める。顔を上げると、なにやら興味深そうに私の書類を覗いている神乃木さんの顔が真上にあった。自分の恋人だとわかっていながらも、なんて素敵な人なんだろう
と、私は半ば惚気のように考えていた。
「難解な事件だな」
 湯気の立ち上るコーヒーに口を付け、神乃木さんがのんきな声で言った。そこで彼は、私がじっと彼を見つめていたことに気づき、ニヤリと笑んだ。
「どうしたコネコちゃん。俺の顔に宝石でもついてるか?」
「神乃木さんが格好いいから見てたんです」
 素直に言った私を見て神乃木さんは喉を鳴らして笑い、その大きな手で頭を撫でてくれた。
「俺はお前だけにとって格好いいオトコであれればそれでいい」
 突然、あまりに歯の浮いたことを言うので私は思わず真っ赤になってしまった。
「やめ、やめてください、職場でそういう…私をっ…口説くのはっ…!」
「他の女を口説くよりはましだろう?」
 さすがにそれには口を閉ざすしかなかった。正直な反応をする私を見て、神乃木さんは嬉しそうに微笑する
と、もう一度、頭を撫でてきた。
 ふと、ぴたりと彼の手が止まったかと思うと、突如、彼は私のキャラメルマキアートに手を伸ばした。私が止めるまもなく、彼は蓋を開けるとそれを一口飲んでしまった。まれに見る渋い顔で彼は首をひねる。
「…こんなにスイートな体験は生まれて初めて、だぜ」
「やめてください、コーヒーが甘いだけでそんな言い方するの」
 それを私のデスクに戻すと神乃木さんは口直しするようにブラックコーヒーを口にした。私のデスクから離れると、部屋の片隅に置いてあるコーヒーメーカーへと歩を進めていく。
「コネコちゃんも、もういい歳のオトナだろう。そろそろコーヒーの酸いも苦いも知った方がいいと思うぜ」
 私はそれには少しへそを曲げた。
「オトナになろうとおばあちゃんになろうと私は私の好きなコーヒーしか飲みません」
「いいオンナにはブラックコーヒーが一番の花だぜ」
「それは神乃木さんにだけでしょっ!」
 少し苛立った私の声を聞いて、神乃木さんはやれやれと肩をすくめた。そして、自分のカップにたっぷりとコーヒーを注ぐと、再びこちらへと戻ってくる。前と同じように、ゆったりとした動きで。
「…まあ…」
 私のデスクに自分のカップを置くと、神乃木さんは顔を近づけてきた。
「そんな演出が必要ないほど、チヒロは俺にとっては最高のオンナだがな」
「…エロいです、センパイ」
 フフ、と嬉しそうに笑うと、私たちはキスをした。


 私たちの幸せな時間があまりにも無情に過ぎ去ってしまって、もはや私がそうして神乃木さんとコーヒーについて語った日のことすら忘れてしまっていた、そんな、とある、私たちにとってなんの変わりもない普段通りの一日になるはずだった日のこと。
 私は裁判を近くに控え、焦りながら書類を流し読みしていた。焦っていたというのは、その裁判に対して不安があったからではなくて、何故か朝からひどい胸騒ぎがして、それがなぜだかわからなかったからだった。
 朝からといえば、その日は神乃木さんが私の傍らにいなかった。忘れもしない。決着をつけなくてはならないから、と二人で以前、裁判で顔を合わせた相手、美柳ちなみと会いに行っていたのだ。
 やめたほうがいい、と私は言った。不安だから、私がついていくわ。なんなら、私が一人でいくから、と。しかし彼はそれをかたくなに断り、大丈夫だから、といつものように余裕の笑みを浮かべて、足早に事務所を出て行った。もう今となってはその日の気候は覚えていない。ただただ、そうして歩いていった彼の、どこか外国人俳優のような雰囲気を漂わせる背中を、もっと見ていればよかったと、そういう気持ちしか今の私にはない。しかしその時の私は、もう二度と彼が自由に歩き、喋り、笑い、怒り、そうして人間としてできて当たり前のことができなくなることを予測していなかった。
 ただ、あまりにも無情に私の胸はぐつぐつと煮えたぎり、行き所のない不安ばかりが私を足踏みさせていた。
 そうして、そうして、彼が出て数時間か経ったのちに、星影先生が真っ青な顔をして部屋に飛び込んできた。
「千尋クンッ!か、神乃木クンが…神乃木クンが、出先で倒れたッ!」
 私たちの、幸せだったはずの世界が、美しかったはずの世界が、墜ちた。
 植物同然になってしまった彼の前に私は崩れていた。泣いても泣いても涙が止まらなかった。叫んでも叫んでも足りなかった。意識が戻らない。意識が戻らないだけでは収まらず、なにやら医者が内蔵もボロボロだとかよくわからないことをいっていたが、真意喪失した私にはラジオのノイズのようにしか聞こえなかった。
 誰かに毒を盛られた可能性が高い、と医者が言っていたのを、僅かに記憶している。
 どうして、どうして、どうして、ただひたすら、どうして彼でなければならなかったのか、どうして自分ではなかったのか、どうして、朝に怒鳴ってでも引き留めなかったのか、どうして自分が行かなかったのか、ただそんなどうしようもないことばかりを考えて、自分を責めて、責めて、責めた。
 こうしていとも簡単に愛おしい人が動かなくなってしまうとは思わなかった。
 ふらつく足取りで事務所に戻ると、電気すらつけずに私はデスクに崩れた。ああ、もうああして彼が私のことをバカにすることも、傍にいてサポートしてくれることも、くだらない冗談を言って笑うことも、抱き締めてくれることも、キスしてくれることも、そして、またあの窓枠によっかかって、キャラメルマキアートしか飲めない私のことを苦笑いして見つめることさえも、もうできなくなってしまった。どうしてもっと傍にいなかったんだろう。どうしてもっと愛し合わなかったんだろう。どうして彼を守ってやれなかったんだろう。
 愛していた。愛している。今でも。
 私は部屋の隅に、まるで何もなかったかのように放置されているコーヒーメーカーを見つけた。今朝、電源を入れてから出たのだろうか、四杯分ほどのコーヒーができているのが見えた。
 涙を拭うことさえも忘れて私はコーヒーメーカーに歩み寄ると、彼が残していった銀のカップに乱暴にコーヒーを注ぎ、飲んだ。彼の匂いがしたような気がして、恋しくて狂いそうになった。空になっても、また注いで、飲んだ。
 闇のように黒くて、地獄のように苦いコーヒー。
 いい女にはブラックコーヒーが一番の花。
 俺はお前だけにとって格好いいオトコであれればそれでいい。
 ああ。
 病室で横たわって眠っていた、呼吸器につながれ点滴に支配された彼を思い出しながら、私はコーヒーを飲んだ。彼の愛したブラックコーヒーを。
 彼のコーヒーを。
 …あなたのコーヒーを。


END



愛しい人を亡くしてどうしようもなくない空虚感に襲われている千尋さんが幸せだったあのころを思い出してる感じが出てればと。後半は書いてるのがほんと切なくて…。




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