はじまりは星影の一言だった。
年度末に向けてなのか、弁護依頼も含めさまざまな仕事が急増し怒涛の忙しさが続いた、それが一段落しようという日の夕刻。星影は千尋に楽しそうに話しかけた。
「ようやく一段落つきそうでよかったのお。今日は一緒に帰るんぢゃろう?」
「は?」
「おっと、こいつはヤボぢゃったか」
「ええと…」
話がつかめず、千尋は困惑する。
「なんせ、せっかくの誕生日ぢゃからな」
「? 誰のですか?」
「もちろん神乃木クンぢゃよ。知っとるんぢゃろう、恋人なんぢゃから」
それとも照れ隠しかのお、と星影は体を揺らして笑った。千尋もそれに合わせて愛想笑いを返す。
(……もちろん、知らなかったわ。)
千尋は、なんだかとても悲しくなった。
そもそも本当に恋人なのだろうか。ここのところの神乃木との微妙な空気に、千尋はそう思う。
たしかに今の神乃木と千尋は、「深い仲である」と言えなくもなかった。まだ一晩だけの話だけれど、初法廷のあの事件があったその日。その急接近は千尋が誘ったとも神乃木がつけこんだとも言える状況だったけれど、それでも十分に想いは通じあっていたと思う。たぶん。そう思いたい。
ただ、その後の展開がまずかった。それはもう、致命的に。
その晩のことは、千尋にとって確かに嬉しく思えたはずのことだった。だけど、思い返すとあまりに急だったことが千尋にはどうしても恥ずかしくなった。でも勤務中にそれを出して仕事に支障をきたしては困ると思った。だから。
つい、避けてしまったのだ。神乃木のことを、さりげなく、でもあきらかに。
更にまずかったのは、仕事上で会話が避けられないときにも、愛想笑いで、まるで何もなかったかのような態度をとり続けたことかもしれない。意味ありげな間が出来ないよう、常に会話が途切れないようにして。何か言いたげな様子も気付かないふりをして。そして一度そんな行動が常態になってしまうと、自分でもどうすればいいか分からず、どんどん抜け出せなくなっていった。
今思えば、それでも神乃木ならなんとかしてくれる、とどこかで期待していたのだと千尋は思う。甘えていのた。
けれど悪いことに、よりによってそんなタイミングで事務所に仕事が大量に舞い込んできた。そうなると当然のように神乃木が一番忙しくなり、同時に千尋の方も、春に事務として入る女性職員の研修に、数少ない同性としてほぼつきっきりになった。自然と、神乃木と顔を合わせるタイミングすらなくなった。
そんなすれちがい状態で、気付くとあの日から3週間以上は経っていた。
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